思いがけず「奇跡のひと・マリーとマルグリット」の映画を見せてもらった。奇跡の人といえば かのヘレン・ケラーだが、「19世紀末にもフランスで実在した⦅もう一つのヘレンケラー物語》」という説明を読んだ時、ヘレンとサリバン先生のあの強烈な印象がよみがえってきた。
今回の主人公は 生まれた時から3重苦を背負いながらも何の教育をうけることなく動物的な毎日をすごしていた10歳の少女マリーと、彼女に目をとめ 教育者となることを申し出た病弱な修道女マルグリットである。2人の間にくりひろげられるまさに「死闘」ともいえる生々しいかかわり・・・毎日繰り返される「ことば」の訓練・・でも何の進歩もない・・襲ってくる失望と疲れ・・受け身で生気のないマリーの顔・・しかし遂に今まで眠っていた人間性の扉が少し開かれる日が訪れる。小さい時から肌身離さずもっていたお気に入りの「ナイフ」が「実体あることば」となってはっきりと理解し表現できる日が来たのだ。その日から水を得た魚のようにマリーは喜々としてあふれんばかりの言葉の大海に船出していく。そして2人の信頼と絆も大きくなっていく。だからであろうか、普通は避けて通るであろう「死」をマルグリットはあえてマリーに教えていく。それも、近づく自らの死を教材にして・・・死に向き合う今を共有する2人にもう時間はない。刻々と衰弱していく中、死とその意味を教えながらマルグリットも自らの死を安らかに受けいれることを学んでいく、そしてマリーもまたその遺志をはっきり理解し受け入れて、独り立ちしていく。
マルグリットの墓前にたたずんで天を仰ぐマリーのまなざしは今や見違えるほど柔らかで確信に満ちていた。「私は待っていた・・・ことばを!」と巧みな手話で積年の思いを吐露したこのひとことは強く忘れがたい響きを放ってくる。「ことば」との出会いはこれほどまでに人を変える力をもっているのだ。
「初めにみことばがあった・・・みことばは神であった。」(ヨハネ1:1)
「みことばは人となり私たちの間にお住みになった」(ヨハネ1:14)
何物にも屈することのない強くて、深いマルグリットの愛情に接して初めてマリーは生きた「ことば」と出会った。まさに「みことば」の誕生だと私には思えた。
人間の美しさを見せてくれた94分であった。
(Sr.Y.S)