1911年(明治44年)は日本の国にとって明治天皇の崩御により明治時代が終わり新しい時代を迎える大きな節目の年となりましたが、日本のFMMにとってもコ-ル師とクザン司教の帰天により創設期が終わり、新しい歩みを始める年となりました。
本会が、まだ殉教と迫害の波に翻弄されていた長崎教区の宣教地に、FMMの堅固な基礎を築き北の果てまで広がっていった背景には、FMMを力強く支え暖かく励まし続けてくださったパリ外国宣教会のコ-ル師とクザン司教の大きな存在がありました。この偉大な宣教師たちの足跡は、まさに政府が「キリスト教徒は完全に絶滅せり」と豪語していた殉教地で宣教に命がけで奮闘したパリ外国宣教師の足跡とも思われます。
日本におけるFMMの大恩人、コ-ル師とクザン司教の帰天
本会の来日以来、姉妹たちは「フランシスコの兄弟のようなコール神父様に導かれていくことの幸せを感じながら」コール師に全幅の信頼を寄せて祈りと宣教に従事してきましたが、待望の着衣式を迎えた頃からこの世での別れを予感するようになりました。この日、コール師は衰弱しきっていたにもかかわらず、使徒的愛をこめて育ててきた「愛する子」の着衣に終始満面に喜びの色を浮かべながら式を最後まで続けることができました。しかし1年前頃から悪化していた健康状態が少し快方に向かうと、教会や女子修道会を巡回訪問して歩き、残された力を司牧活動に注いでいました。同僚司祭が「ゆっくり休養するように」と勧めても、「私は司牧活動中に死にたい」と答えていたと言われます。2月にはとうとう床につき、この世で最後のひとときを神と語らいつつ静かに過ごしていましたが、2月9日、手取教会の一室で師の事業を引き継いだショファイユの幼きイエズス会とシャルトルの聖パウロ会と本会の3修道会のシスター方の熱い祈りに包まれながら東京のボン大司教の腕の中で安らかに天国へ旅立っていかれました。コ-ル師は教会とりわけFMMの大恩人でした。コ-ル師の帰天後も師が本会に与えた資金と利子のおかげで琵琶崎と人吉の準会員や志願者の数名がこの学校で学び、カテキスタとして養成され、困難な地域で宣教に励み人々のキリスト教に対する偏見や先入観を徐々に取り除いていきました。またコ-ル師の援助で、1911年6月には人吉の修道院、聖堂、施療所が新築され、1913年(大正2年)1月には、琵琶崎の新修道院が祝別され、創立後14年を経てやっと修道院らしい建物で修道生活を送ることができるようになりました。
長崎の使徒的宣教師であるコール師の残した霊的遺産は実に大きいと言われます。何よりも先ず、司祭生活の美しい模範と内的生活、使徒的熱心さと聖務に対する献身は非常に大きな遺産でした。熊本地区に3つの教会を建て、家族からも社会からも見放されていた貧困者、行き場のない子どもや老人、病人、特にライ病者を世話する施設を各地に開き、事業を継続させるために3つの女子修道会を招いて
社会福祉の草分けとなりました。
それから百年後、熊本の宣教地では熊本宣教百年記念日を迎えて信徒たちはコール師の残した霊的遺産を思い起こしながら手取教会で感謝のミサを捧げた後、FMM修院の敷地内にある師の墓前で祈りました。この日、パリ外国宣教会日本管区長のジャン・ワレ師は、百年前のコ-ル師の宣教が第二バチカン公会議の教え通りであったことに
感嘆し、それについて次のように述べました。
コ-ル師は最初の段階から邦人司祭と共に働き、土地の有力者と広く親交をもち、受持の南九州地区にある教会の巡回と伝道宣教に宣教の頂点を置き、伝道士や修道女の協力を得ることが必 要と考え、婦人・子供・病人のためにいてもらい、共同体の基盤を固めた。教会の責任を邦人司祭に委ね、自ら苦しむ人、見捨てられた人、最も助けを必要としている人のために尽された。
コ-ル師の帰天後、もう一つ大きな捧げものが宣教女に求められました。それは同じ年の9月18日に天国へ旅立たれたクザン司教との別離でした。クザン司教は来日当初プチジャン司教のもとで大浦天主堂つき司祭として司牧していた時、復活したばかりの教会が直面していたキリシタンの殉教・迫害を目の当たりにしています。政府や外交団を何回も駆け回って人道上の理由から流罪取り消しに奔走していましたが、鼻息の荒い維新政府から「内政干渉である」と、はねつけられた上、監禁同様に司祭館に閉じ込められてしまったのです。実際にクザン神父は、望遠鏡を手に、浦上の信徒たち長崎港から団平船に乗せられて連行されていく悲惨な姿を司祭館2階から見て、天主堂の塔上にそびえる十字架を眺めている信徒たちに祝福を与え心と心を合わせて祈りながら見送っています。
クザン司教は、生前宣教師や修道女たちの長年にわたる必死の宣教にも拘らず一向に顕著な効果が現れないのを見て「日本にも正義の太陽が昇る日がいつか来ると希望してきたが、それも諦めなければならないのだろうか」と苦悩の言葉を発したこともあったと言われます。それでもこの偉大な宣教師の奮闘で40名以上の邦人司祭が叙階され、開かれた教会や伝道所が32か所、2倍の信者数が誕生しています。また、コ-ル師が最も心にかけていたカテキスタ養成学校にこの年だけでも10名の準会員が学んでいました。