マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

シスター是枝邦子の巻

-いつどんなきっかけでキリスト教に出会いましたか?

envelop_empty私の家は神道で、「どこにでも神様はおるんよ。」と、よく言われて育ちました。中学3年の時に普通に高校に行くものと思っていたのですが、いよいよ卒業も間近になったある日、私の隣の席に座っていた同級生が2枚の茶封筒を持って椅子の上に上がり、「これ准看護婦養成所の願書ですが誰かいりませんか?」と。 私はじっと見ていて、どんな所かなぁ、私もはやく自立したいなぁ、という考えがふわっとわいて、「ちょうだい」と思わず手を伸ばして残りの1枚をもらいました。そして開けて見たら、それは天使准看護師養成所の願書でした。私は親にも言わずこっそり内申書を準備し試験日を迎えました。その時母に話したところ、「もうこの子は!自分になんの相談もしてくれない」と、母を悲しませてしまいました。でも長女の姉はすでに看護師をしていましたので「ええやないの いちかばちか やらせてみたらええやん」と言ってくれました。

試験は筆記と面接があり、面接試験では真っ白い姿の天使のような人たちがずらーっと並んでいました。その時聞かれたことは、「あなたは大勢の人たちと一緒に働くのが好きですか?一人二人で、そこに打ち込む仕事が好きですか?」と。私は「大勢の兄弟、家族の中で育っていますので、大勢の中で働くのは大好きです。」と答えたのを今でも覚えています。私はこの学校がキリスト教の学校であるということは知りませんでした。ただ とても崇高で清らかな感じのする方々が座っておられて、すばらしいなぁーすばらしいなぁーと、今から受ける試験のことよりも、あぁ あの方たちはなんだろうとう思いで一杯でした。看護学校に入学すると宗教の時間がありシスター方との関わりも多くなり、キリスト教の勉強をして、ついに入学した年の12月8日に洗礼を受けました。

-洗礼はどんなきっかけで?

Sr.Koreeda3きっかけと言うより、当然の成り行きと言いますかね。神様のことを教えていただいてそこがゴールだから、そこに行かないかぎり。マリアの宣教者フランシスコ修道会のシスターとの出会いは この学校に入学した時からです。修道生活については考えてもみず、神さまに対するあこがれで、毎朝お御堂にお祈りに行っていました。ミサに与りシスター方の姿を見、学校のクラスでシスター方の姿を見て、実習に行ってシスター方の生き方にふれ、私はそこで、ただ 素晴らしいなあー、あぁなんて素晴らしい人たちだろうと思いましたが、シスター方と自分が背丈を並べて生活するなんて夢にも思っていませんでした。

1959年クリスマスの日、学生たちにプレゼントをくださいました。その後28日でしたか、シスター鶴巻が廊下で私を見つけると 「あなた管区長様が応接間で待っていらっしゃるから会ってちょうだい。」と言われるんです。私は「どういう方ですか?何のために?」と。 シスターは「いや、行けばわかる。」と言うだけでした。私は言われるままに応接間に入り、そこで待っておられた管区長様から「あなたは修道生活の道をどう思いますか?」と突然問われ、「毎日ミサでシスター方の後ろ姿しか見ていませんが、素晴らしいと思います。」というと、管区長様は「あなたもなれますよ。」とおっしゃいました。とんでもないメッセージをいただき、 「私がなれるって!そんなこと・・・」と思いながらも、何か知らないうちに涙が込み上げてきて、ただもったいない夢のような話でした。それが19歳の時です。

それから2日後、12月28日から3日間休みをとり両親のいる実家に行きました。そして31日の夜、夕食後父から「邦子 そろそろ家に帰ってこないか?」と言われました。私はとうとうその時が来たと、私の思いを話しました。「私はずっとずっと看護婦として仕事をしたいのでそのために結婚はしません。シスターになりたいんです。」と言ったら、父はもう、びっくりしていましたがしばらく黙って、「お母さんが帰ってきたら、話しとくから。」と言ってくれ、私はぱぱーと逃げて2階に上がっていったんです。そして姉妹たちに「お父さんにこう言ってきた。」と言って、わあーと泣き出しました。両親は暗黙のうちに私の望みを受け入れてくれました。その年の晦日と元旦は、涙、涙の決別の日になってしまい、申し訳がなくて逃げるように札幌の寮に帰ってきました。

-入会後 どのような生活を送られましたか?

初誓願をして最初の派遣先は横浜のベビーホームでした。次に札幌天使病院、そして東京の聖母病院で看護婦として働きました。その後1年間、修道者のための生涯養成コースに行くチャンスをいただきました。そこで初めて、神さまが私たち修道者を招かれたのは病院の中だけではなく、もっと広い広い社会に向かって呼ばれていると、目覚めさせられました。その時期 山谷に行き、そこで生活している方々へのお手伝い、炊き出し、衣類の整理、またそこの診療所でお手伝いをしながら、私の中でフランシスカンのカリスマが深まっていきました。山谷に行ったおかげで、私はアルコール依存症に対する関心も深まり、その人たちのことが忘れられなくなりました。また、東京の小平に女性のアルコール依存症のための共同体があり、私は毎日通って彼女らによりそいながら、7年間お手伝いをさせていただきました。ちょうどその時に阪神淡路大震災がありました。そこにも行くチャンスが与えられ、そこでもアルコール問題の被災者と5年間関わることができました。その後は新しい宣教地である横浜戸塚の聖母の園老人ホームで看護師として働き出しました。

Sr.koreeda1その3年後に悪性リンパ腫が見つかり、このまま放っておいたら3か月で死ぬと、診断されました。私の意地っ張りな性格が、そのまま病気と向かい合うために便利に作用して、幸い落ち込むことなく、死に対する興味というか、憧れ、これで人生も終わって悔いなしというところまで行きました。お医者様にやるだけのことをやっていただいたらあとは望むものは何もないし、戸塚のおばあちゃんのシスター方の生き様をずーっと見ながら死の準備をしようと思ったんです。その間全国に散らばっている兄弟たちも見舞いに来てくれましたが、いろいろ考えて最期を北海道で、田舎暮らしをしながら送りたいと願い出ました。そして北広島で5年間過ごし、ここ札幌に来て今3年目です。この間抗がん剤を受けながら4回再発し、4回とも髪の毛が抜けました。今は抗生剤とウイルスをおさえる薬だけで、普通の生活をしながら院内の玄関当番をしています。

 

―これまでの長い修道生活の歩みをふりかえって、若い人に伝えたいものは?

私の過去を振り返ってみる時、その様にレールがひかれ そのレールに乗って運ばれてきたので、今は感謝しかありません。私が選びとったのですが、その様に使って下さった。病気になったのも恵みです。病気によって人間の人生の始まりと終わりを、どの様にしめくくるかを真剣に考えましたね。「神は与え、神は取りたもう」と言ったヨブの気持ちもわかるし、その時その時 「時にかなって美しい」と言うコヘレト書のことばにもあるように、神さまは順番にレールをひいて下さり、汽車に乗って行けば終着駅に着くし、また、別の世界に連れて行って下さるでしょう。

若い人に伝えたいことは、やはり、どんな時にも神様を信じることだけですよね!人間関係で悩んだり、裏切られたことなどいろいろありましたが、神様が私を導いて下さっている、その確信ですね!自分の心から湧き出るエネルギーが神様の栄光になるように生きられたら、素晴らしいと思います。

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