マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

ミャンマー

今月は東南アジアに位置していて、政治的にも世界の注目を浴びているミャンマーのシスターが提供してくださった記事をご紹介いたしましょう。

以前は「ビルマ」と言う国名で呼ばれていた東南アジア大陸部の西部にあるこの国は、正式国名を「ミャンマー連邦(The Union of Myanmar)と言います。11〜13世紀バガン朝が栄え、19世紀にはイギリスの支配下にありましたが、1948年に独立し、1989年には社会主義連邦共和国と改称しました。住民はビルマ族を主とし、少数民族も多い国です。

ミャンマーのチン(Chin)州の南部はとても旅行をするのに難しい地域ですが、FMMはこのあたりにいる唯一の修道会です。

FMMがチン州南部のミンダ(Mindat)のミッションに来たのは1936年でした。今から約70年前のことです。翌1937年、院長のシスターがマラリアで亡くなりました。彼女は「私は愛するこのチンの人々のために自分の命を捧げます」と言って天国に旅立ちました。第二次世界大戦の間、シスターたちはミンダから約14マイル離れた小さな村ルクセ(Lukse)という所に逃れ、そこで、1942年から47年まで過ごしました。周りからは完全に隔離されていたその地域で、日々の糧を得るために山や畑で働いていましたが、戦争が終結した後、間もなく1947年に漸くミンダに戻ることができました。

1951年に当時の管区長であったシスターメンナが来られて、新しくミッションを開設することになり、1956年5月27日、戦時中に逃れていたルクセに共同体が開設されました。今回はシスターたちは難を逃れるためではなく、人々とともに住み、神様の愛と信仰を分かち合うために戻ってきたのです。その当時の創立者のシスター4人のうち、一人のシスターが今も健在で、元気に活躍しています。

ルクセに来るのは大変で、何年もの間まともな道路がありませんでした。宣教者たちは馬の背に乗るか、村人たちにかつがれて旅をしたのです。FMMたちはその間、いつも山道をずっと歩いてやって来ました。今では小さな道路が作られ、天候が良い時だけ、小教区の車が通っています。山はとても高く、谷は深いので、車でそこを旅行している間は、怖くて息を止めるほどです。でも、イエスがどんな時にも私たちを守ってくださるので、幸いなことにいつも無事故で着くことができます。

この修道院創設以来、シスターたちはここで、保健、教育、宗教、社会教育の方面でルクセや近くの村々の人たちのために奉仕しています。主として貧しい人々のための活動で、特に病人や最も助けを必要とする人たちのために働いています。また、あちらこちらの村から女の子たちを受け入れて、教育を手伝っています。幸いなことに、創立以来行なっている診療所は人々からとても喜ばれています。

2006年4月23日、私たちはFMMがこの地に来てから50年目のお祝いをいたしました。感謝のミサが8人の土地の司祭によって捧げられましたが、その中でPaulinus Mang Ha Gei神父様はチン南部出身の最初の司祭です。彼は自分がFMMのお陰で神学校に行かれたことを、また、チン州の教会はFMMの働きの実りであると話されました。初めての司教であるHakha司教様と他の6人の神父様たちもルクセ小教区出身者です。また、8人のFMMがルクセ出身です。

感謝のミサでは、奉納の前に参列していたシスターたちが全員で誓願を更新しました。奉納の行列はとても意義深く、象徴的でした。シスターたちは次の物をシンボルとして奉納しました。

・ 光を灯したローソク:それはFMMがルクセにもたらしたキリストの光をあらわすもの
・ 花瓶に活けた色々の花:それは私たちFMMの国際性をあらわすもの
・ FMMの会憲:それはこのミッションにおける人々に対して、私たちが持っている神の愛をあらわすもの
・ 地球儀:それは私たちの宣教精神およびどこでも、また誰の所にでも行く覚悟であることをあらわすもの
・ チンの織物のショール:それはルクセにおけるFMMの存在をあらわすもの
・ 自分たちの畑でとれた野菜と果物
・ 人々の健康のために奉仕するシスターたちをあらわす薬

祭儀はとても簡素でしたが、この地方の文化をよく表現していました。シスターたちはこの地方で作られたお酒とビーフを振舞われました。それは人々の感謝をよく表していました。夜には色々の村からの伝統的なダンスが行なわれました。

私たちもルクセにおいてこの50年が与えられたこと、また、チンの人々の間での神の宣教が続けられるように神に喜びの歌を捧げました。