マリアの宣教者フランシスコ修道会が日本で宣教の第一歩を踏み出したのは1898年(明治31年)10月19日、当時、日本に国立ハンセン療養所が一つもない時代に、余りにも非人間的な生活を強いられているハンセン病者を世話するために熊本へ呼ばれて来たのがはじまりでした。
当時、長崎教区に属していた熊本地区のコ-ル神父は中尾丸のライ部落に自らの手で療養所を開きましたが、惨めな患者の苦しみを和らげるためにはどんな犠牲をはらってでも病院の建設が必要であると切実に感じ、この要望に応じてくれる修道会を探しました。しかし、どうしても見つけることができませんでした。
そのことを伝え聞いたロ-マにある聖母訪問会の修道女から「マリアの宣教者フランシスコ修道会の創立者マリ・ド・ラ・パシオンは ハンセン病者を救うためなら どんな要請も決して断わらない」ということを耳にすると、神父は大急ぎで創立者に手紙を書き、この事業を引き受けてくれるよう会員の派遣を依頼しました。その要望が当時長崎教区長だったクザン司教からも正式に創立者のもとに届いていました。
コ-ル神父の呼びかけは摂理的でした。1897年2月5日、長崎の26聖殉教者300年祭をロ-マで祝っている時に、要請の手紙が届いたからです。その手紙にはハンセン病の悲惨さと病院経営の難しさが綴られていましたが、常々ハンセン病者の世話をする会員が「私たちの友」であるハンセン病者の「はしため」になることを心から望んでいた創立者は、この呼びかけを神からの呼びかけ、聖フランシスコの招き、愛の賜物として即座に受け入れました。
フランシスコの娘である創立者は、日本から受けたハンセン事業の要請をフランシスコの呼びかけとして 何のためらいもなく快諾し、聖ペトロ・バプティスタとその同志の殉教後、フランシスコ会の兄弟たちが一人もいなくなった日本の地に、再びフランシスコの生き方を通して福音を宣教するために会員を派遣しますが、何よりもマリ・ド・ラ・パシオンのハンセン病者への愛が日本にマリアの宣教者フランシスコ修道会を誕生させたのです。