2013年に管区創立40周年を迎えたベトナム管区からの分かち合いです。
1975年4月30日以降、クイ・ホアハンセン療養所は共産党の手に渡され、国家が管理し、シスターたちは従業員として働くようになりました。療養所での子どもの教育は、わずかに読み書きを教えるだけでした。しかし、1988年、あるジャーナリストが療養所を訪問し、100万ドン(約100ドル)を子どもの教育のために寄附してくださったことから、ハンセン病の子どもたちの教育の機会が広がってきました。
寄附をいただいて以来、クイ・ホア修道院のシスターたちは、養所長の許可をもらって、子どもたちの教育の拡充を図ってきました。まず、寄附の利子を使って、机やいすを作り、療養所内でクラスを開き、親たちに子ども達をクラスに送るように説得しました。
その当時、大きな子どもたちには、患者の中で少し教育のある人が、読み書きを教えているだけでした。そこで、大きな子どもたちが社会復帰を目指して知識を得ることができるように、300冊の本をそろえて図書室を作りました。
また、私は、療養所内での普通教育の実現を求めて教育委員会と交渉するために、石ころだらけの道をバイクで長い道のりを走りまわりましたが、交渉はうまく行きませんでした。
1990年8月、教育委員会との交渉に行く前に、カテドラルに寄り、ルルドで、聖母の導きを祈っていたとき、突然、「チャン・フン・ダオ中学校」という小さな看板が目に入ったのです。そして幸いなことに、その校長先生にお目にかかり、クイ・ホア療養所の子どもたちをその学校で受け入れるという承諾書をいただくことができたのです。その時は、子どもたちに普通教育を受けさせたいという一途な願いで、中学校への受け入れをお願いしたのですが、子どもたちの通学に関して、きちんとした計画があったわけではありませんでした。しかし、その時以来、聖霊の助けにより、多くの困難を乗り越え、ハンセン病の子どもたちの教育を発展させることができました。
子どもを学校に送るためには、まず両親を説得しなければなりませんでした。というのは、親たちは「外の世界」に対して恐れを抱いていますし、子どもに勉強が必要だとも思っていないようでした。それで、親たちを説得し、寮や学費の準備を始めました。
幸いに、聖パウロ会のシスターたちが、寄宿に子どもたちを受け入れてくださることになり、最初の年には、7人の子どもが聖パウロ会の寄宿からチャン・フン・ダオ中学校に通うことができました。
しかし、ベトナムの社会では、ハンセン病についての理解や知識が遅れており、健康な子どもたちの親たちから、反対の声が上がってきました。子どもたちが感染するのではないかという恐れを抱いたのです。それで父兄会で、シスターたちは40年以上ハンセン病者のお世話をしているが、誰も感染した者はなく、ハンセン病の感染力はとても弱くうつりにくい病気だということを説明しました。その後徐々に、周りの人々の態度も和らぎ、子どもたちが石を投げられることもなくなりましたが、子どもたちの心が深く傷ついたのは、本当に悲しいことでした。7人は、優秀な成績を収め、1年の終わりには終了証書をもらうことができました。
1992年の夏休み後には、もう7人の生徒が加わりましたが、その子どもたちは、最初の子どもたちよりも小さい子どものクラスでしたので、感染する危険が高いと言われ、子どもたちの住む別の場所を探さなければなりませんでした。ある家を借りることができ、シスターガブリエルが子どもたちのお世話をするようになりました。しかし、家が汚染されて、将来その家を借りる人がいなくなると言って、家主に追い出されていまいました。その後、売りに出されている家が見つかり、1993年の正月に子どもを移すことができました。しかし、その時、私は別の修道院に移動になってしまいました。
そして、20年後、また、クイ・ホア修道院に派遣されました。以前の偏見や壁がなくなり、ハンセン病の子どもたちも、皆普通教育を受けられるようになっているのがわかり、本当にうれしく思っています。多くのハンセン病者が教育を受け、社会の中に居場所を持ち、静かな家庭生活を営んでいます。健康な人と結婚し、普通の生活を送っている人も少なくありません。クイ・ホア療養所から社会復帰をした子どもは70人におよび、国中で、様々な職業についています。
この年月を振り返って、私は感謝の気持ちで一杯です。恩人たち、カナダのハンセン病友の会の皆様、聖パウロ会のシスター方、「チャン・フン・ダオ中学校」の校長先生・・・など枚挙に遑がありません。
今、昔の子どもたちは、胸を張って堂々と、社会の中で、立派に生きています。
Maria Dang thi Hoang, fmm