マリアの宣教者フランシスコ会(FMM) の札幌派遣
1907年(明治40年)9月、ベルリオ-ズ司教は1年8か月におよぶ長い募金旅行を終え、再び函館の土を踏みました。そこで司教が最初に目にしたのは、到着直前に函館市を襲った大火で焼け残った教会とシャルトルの聖パウロ会修道院の悲惨な姿でした。その時の損失は、司教が募金旅行で集めた金額の20倍に相当すると言われています。司教は、復旧作業が一段落つくと札幌へ出かけて行き、兄弟たちが聖フランシスコの家に相応しい粗末な家に住み、既に幾つもの事業で働いているのを見て、大変喜びました。この時、司教は、フランシスコ会と本会の将来計画についてラフォン師と詳細な打ち合わせをしています。その翌年、1908年(明治41年)の春、FMM仮修道院の建築が始まりました。ロ-マでは、札幌へ派遣される7名の出発準備が本格化していました。
マリ・ド・ノ-トル・ダム・ド・グアダルペ、メキシコ人の院長27歳の有期誓願者、フランス語、ドイツ語、スペイン語を話すマリ・デニス・ド・ランファン・ジェズ、フランス人の副院長21歳の有期誓願者、ロンドンで 4年間 英語を学ぶマリ・パンクラチオ・ディ・ジェズ、イタリア人の看護婦37歳の有期誓願者、ロ-マ教皇庁立赤十字病院で資格取得マリ・サルバトリス、イタリア人、28歳の終生誓願者、刺繍が得意マリ・テクラ、フランス人、24歳の有期誓願者マリ・ド・サン・ユゼブ、フランス人、25歳の有期誓願者マリ・ド・サン・ジャンヴィエ、フランス人、22歳の修練者
1908年(明治41年)7月20日、一行は、派遣地の札幌で診療所か病院の事業を始めることができるかどうかも分からないまま、新しい宣教地に向けてマルセイユから船出しました。フランシスコ会の兄弟たちが札幌に到着して一年半の歳月が過ぎていました。
院長のM.グアダルペは、マルセイユを出発してから横浜港に着くまでの36日間の旅路を克明に記録した「天使の聖母の航海記」を書き残していますが、それによると、この姉妹たちは、札幌でどんな使徒職が待ち受けているか分からない不安を抱きながらも、会長のM.レダンプシオンが札幌修道院の保護者と定めた「天使の聖母」のことを思いめぐらしつつ、聖フランシスコの兄弟たちと一緒に始める貧しい宣教地での生活に大きな期待を寄せていました。8月2日、船中で迎えた「天使の聖母聖堂奉献」の祝日には、聖フランシスコとフランシスコ会揺籃の地であるポルチュンクラ聖堂を聖母マリアがどれほど優しく愛されたかを思い起こしたに違いありません。新しく開かれる修道院が、会の創立者マリ・ド・ラ・パシオンの望まれるような貧しい人々の「母の家、天使の住い」に相応しい家となるように、できるだけ 聖フランシスコと共に、聖フランシスコに倣って、清貧の生活を送りたいとの思いを新たにしたようです。イエスとマリアが天使たちに囲まれて聖フランシスコに現れたのは、この貧しくみすぼらしい聖堂でした。
会長のM.レダンプシオンが募金旅行中のベルリオ-ズ司教に手渡したフランシスコ会総長への紹介状が「すべての扉を開く鍵」となってフランシスコ会と本会の宣教が札幌の地で始まろうとしていました。
一行7名のFMM会員が横浜へ入港したのは8月26日の夕方でした。港にはパリ外国宣教会の司祭とサン・モ-ル会(現在の 幼きイエス会)のシスタ-3名、それに 司教から旅の案内役を依頼されていた函館の若い信者さんが一行を迎えに来ていました。一行はサン・モ-ル会の修道院で一泊し、翌日 シスタ-の経営する学校を見学後、目的地までの長い旅に出ました。明治もこの頃になると、東北本線が上野から青森まで開通していました。それまで青森・函館間も、月4往復しか航行していなかった民間の定期船がこの年に初めて国有化され、鉄道連絡船が毎日航行するようになっていました。これまで津軽海峡を渡るのに一日半かかっていた所要時間も、4時間に短縮されていたのです。横浜を発った一行は、仙台で下車してシャルトルの聖パウロ修道会の修道院に泊まり、その翌日、シスタ-の経営する施療院を見学後、再び車中の人となりました。青森駅では一行を待ち受けていた司教と合流し、連絡船で津軽海峡を渡りました。函館駅に着くと、将来の東京大司教・シャンボン師の出迎えを受けました。この日、宿泊先のシャルトルの聖パウロ修道会の修道院に行くと、シスタ-たちは、一年前の函館大火の焼け跡で窮屈な生活を送っていたにも拘わらず、自分たちのベッドまで空けて、一行を暖かく迎えています。更に、司教の案内で、一行は女子トラピスト修道院の囲いの中まで入ることができました。こうして、司教の暖かい配慮のおかげで、一行は、来日早々3つの女子修道会のシスタ-たちと親しく交わり、宣教地での生活や事業を見て多くのことを学びながら、札幌へ向かいました。