函館を宣教基盤として進められた札幌の宣教地
日本の開国で一斉に開港場に上陸したプロテスタント諸派の宣教師たちが、国の定めた外国人居留地を拠点に活動を開始していますが、カトリック教会にも新しい展望が開かれていました。開港により、パリ外国宣教会の主導のもとに日本再宣教の新たな第一歩を踏み出したばかりのカトリック教会に大勢の宣教師たちが海外から応援に駆け付けてきたからです。実際、1863年に「日本代区」として「神の家」の復興に乗り出したカトリック教会が1876年には琵琶湖を境に、南緯と北緯に分離独立して二つの代牧区となり、それから僅か15年で4司教区に再編成されて飛躍的に発展していますが、北海道の宣教もこの流れに沿って本格化していきました。
前にも述べたように、北緯代牧区時代に函館に天主堂が建てられ、フランスからシャルトルの聖パウロ会が招かれていますが、函館教区時代にも、フランスから男子と女子のトラピスト修道会が呼ばれて、函館を中心に北海道の宣教基盤が作られていきました。開港当初函館にも外国人居住地として定められていた地域がありましたが、函館戦争後は有名無実も同然で、実際には外国人が市街地に雑居していたこともあって自由に宣教活動が出来たものと思われます。一司祭として函館に派遣された当時のベルリオーズ司教も、室蘭・白老でアイヌの宣教に情熱を燃やして自由に歩きまわっていました。アイヌ部落に入り、アイヌ人の茅葺の家に留って彼らと起居を共にしながらアイヌの言葉と風習を学び、アイヌの教化に努めていました。最初に洗礼を授けた人はアイヌと結婚していたキリシタンの家族だとも言われています。司教叙階にはアイヌ部落に伝道所を開設し、アイヌ語のカトリック要理を編纂しています。
1886年、函館に設置されていた開拓使が廃止されて札幌に北海道庁が置かれると、プロテスタントの宣教師たちは札幌に進出し、全道にわたって宣教活動を盛んに行いました。ベルリオーズ司教が司教に叙階されて最初に着手したことは札幌の伝道所に司祭を常住させることでした。カトリックの信仰を札幌方面に伝えた最初の宣教師はフォリー師で当時の札幌地域は、函館と室蘭を除き南サハリンと千島も含めて北海道全域に及んでいました。植物学者として有名なフォリー師は、植物を採取しながら北海道の広大な宣教未開地を巡回して歩き、札幌のみならず信者の親戚が住んでいた小樽や北広島にも伝道所を開きましたが、とうとう過労で倒れ、北海道を去らざるを得なくなりました。ベルリオーズ司教はその後任にラフォン師とビリエ師を札幌地域で最初に作られた伝道所(現在の北1条教会)の常任司祭として派遣しました。両氏は道内に点在する信者を見つけては熱心に彼らの再教育に力を入れていたので、「公教要理の神さま」と言われていましたが、宣教はいつもプロテスタントの宣教師たちに押され気味でした。
プロテスタントの宣教に比べ、カトリックの宣教は遅々として進みませんでした。その理由として、一般に指摘されていることは「プロテスタントが一般の人を対象に活発な宣教活動を繰り広げ教育事業を重視していたのに対し、カトリックの主力が旧信者の再教育のための地味ながら徹底した信仰教育と福祉事業におかれていたこと、アメリカ系のプロテスタントの方がフランス系のカトリックよりも明治政府の求めに適っていたこと」でした。それにしても、北海道の開拓事業に招かれた外国人の多い札幌では札幌農学校の教師や学生だけでなく、一般市民にとっても外国語の勉強が必要とされたのです。
このような状況下にあって、ベルリオーズ司教は、図らずもローマで出会ったフランシスコ会総長と本会の会長から「働き手」派遣の約束を交わしていたので、募金旅行で集めた寄付の一部をラフォン師に送り、本会の修道院を建てる土地を購入しておくように指示しながら夢の実現に着々と取りかかりました。
こうして、札幌でも、司祭不在の時代を長年生き抜いてきたカトリック信仰の強い信仰心、聖母に対する深い信心、社会の古い風習を打破する勇気が徐々に若い教会を誕生させる力となっていったのです。