人吉修道院の創設
1906年 (明治39年) 1月18日、M.マドレヌ・ド・パジとM.コロンブはM.メルセデス、 M.ピュルテ、M.マルタの3名とともに人吉へ向かって1泊2日の骨の折れる危険な旅に出発しました。M.マドレヌ・ド・パジは人吉の自然の美しさと素朴で善良な土地の人たちに強く心引かれ「ここに新しい祭壇を築くことが出来るかと思うと とても幸せです。私が心から気に入っている修道院はチェンシ-とマカオですが、今度はそれに人吉も加えましょう」と、後に会長のM.レダンプシオンに打ち明けています。一行は真冬の厳しい寒さに震えながら 翌日の夕方頃 ようやく目的地に着き、出迎えのカテキスタの案内で 主任司祭ブレンゲ師が事前に用意しておかれた小さな仮住まいの家と診療所に辿り着きました。早速 家に入って十字架、聖母マリアと聖ヨセフと創立者の写真など大事な宝物を飾り、その前で祈りました。こうして 1月19日、熊本県球磨郡人吉町に マリ・ド・ラ・パシオンが名付けた「日本の聖母」修道院が創設されました。久留米と同様、この家にも家具など全くなく、シスタ-たちは余りの貧しさに「家具がなくても生活できるなんて信じられない。でも、フランシスケンにとっては まるで王女様のよう!」と思わず言ってしまうほどでした。隣の教会には司祭不在のため聖体は安置されていませんでした。ブレンゲ師も、当時の宣教師と同様、土地の人たちと親しみ、人々の中に溶け込むことに専念して宣教活動をしていたので、教会を不在にすることがよくありました。幸いにも、その翌日に主任司祭は戻られ、この小教区にとって初めての聖体降福祭を修道院聖堂であげられました。シスタ-たちは このように人里離れた小さな町にも 常に 聖体の主の側で 神の栄光と人々の救いのために祈り仕える共同体が誕生したことを神に感謝しました。
人吉修道院の新設もコ-ル師の招きによるものでした。コ-ル師の夢はこの修道院をカトリックセンタ-にして宣教活動を広げていくことでした。そのために 病人・子供・老人のための事業を徐々に始めていく必要がありました。この計画に従って、共同体は施療院を開く前に土地の言葉を学びながらカトリックの教えを広めることに力を注ぎました。ここは仏教と神道の強い土地であるため修道女を見たことのない人たちばかりで、シスタ-たちを好奇心と疑い深い目で見ていました。それから2か月後に、共同体は「復生院」の名のもとに施療院を開きましたが、最初の5か月間は殆ど患者が来ませんでした。「あの病院に行くとカトリックを押し付けられる」と言う人がいたためですが、ようやく その疑いも晴れて患者が来るようになり、塗り薬がよく効くと評判になったかと思うと、今度は 迷信で悩まされました。「修道女たちは この薬を 患者の肝からとって作った」という噂が飛び、患者が余り来なくなってしまったのです。それでも、シスタ-たちは 忍耐強く人々に説明し、創立者に祈りながら 患者の来るのを待っていました。やがて「修道女たちは 悪い人ではない」ということが人々にも分かってきて、患者が次第に増え始めました。患者たちは無料で診療してもらっていたので、感謝のしるしにほうき、バケツ、わら草履、にんじん、ナス、キャベツ等の収穫物を持って来ることもありました。間もなく この復生院に 貧窮者保護施設と刺繍部屋を併設し、生活が苦しい人を保護し、地元の婦女子に裁縫・編物・刺繍・料理などの技術を教え、手仕事で収入を得させるためにアトリエを開きました。これが1914年(大正3年)に正式に開設されたアトリエです。本会は 創立者の意向に沿って 修道院の創設時には 必ず アトリエを開きました。それはフランシスケンにふさわしく手仕事で生活する手段となり、女性や障害者には手に職を与えて生計を助け、共に働きながらキリストの教えを伝えることができると同時に、自分たちも土地の言葉や文化を学ぶことができ、宣教の大きな力となりました。ここでも女性や障害者対象の通勤授産所が1960年代まで続けられました。
久留米と人吉に修道院が新設された1906年 (明治39年) の1月と言えば、100万人の兵士を注ぎ12万人の戦死者を出した日露戦争の終結わずか3か月後のことで国中が大きな打撃を受けていました。日本からロ-マに送られた手紙にも当時の様子が報告されています。熊本では政府の命令で、人々は日の丸を片手に行列を作り、帰還兵をバンザイの歓声で迎えていました。その中に、白い箱を受け取る戦死者の家族の悲嘆にくれた哀れな姿が見られました。琵琶崎待労院でも聖堂で涙を流して祈る信者の遺族に、シスタ-たちは聖母マリアのご像を与え、慰めていました。コ-ル師も捕虜のロシア兵のためにミサを捧げに行っていました。久留米の教会ではロシア兵が歌うポ-ランド語の賛美歌が悲しく響き、大勢の涙をさそいました。討幕と明治維新後の内乱、そして 日清・日露戦争の波は貧しい人に 容赦なく 襲いかかり、病人、餓死、親子心中、捨て子、人身売買などが多発し、善良な人々をどん底に落としました。明治政府は文明を開化させ、 交通や産業、学問や教育の面で著しい発達をもたらしましたが、貧しい人たちの面倒をみるまでの余裕などありませんでした。ですから、いつの時代もそうですが、姉妹たちは貧しい人が苦しんでいるのを見ると、自分たちの貧しさを顧みずに、病人、子供、年寄り、障害者、未亡人等、見捨てられた人たちを受け入れる場所を作り、この人たちが少しでも人間らしい生活が出来るように援助しました。本会の病院・診療所、育児施設、老人施設、授産施設等の社会福祉事業はこのような小さな芽から始まり、いつの間にか拡大し発展していきましたが、宣教は 相変わらず 難しく、宣教に熱心なM.ピュルテでさえ その余りの難しさに「悪魔が邪魔をしている」と、会長に報告し、日本の精神性の中に神道、仏教、プロテスタント、異端的なもの、オカルトや迷信にいたるまで様々な考えが混在しており、一人で幾つもの宗教をもっていながら「真理と愛」を知らされていない事実に心を痛めています。M.マドレヌ・ド・パジが「非常に知的で これ程まで文明を開花させている日本人を真理に導くためなら どんなことでもしてあげたいと思います」と書いているとおり、シスタ-たちは「宣教のためなら どんなことでもする」と 意気込み、宣教が「神のわざ」であると確信して聖体から力を汲みつつ 熱心に宣教活動に励みました。