マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

Sr.ベルナデッタ 大野勝子の巻

                 *洗礼のきっかけは何でしたか?

私は熊本の水前寺の生まれで3人姉妹の長女でした。家族は普通の仏教の家で、まだ小さかった頃、おばあちゃんが木魚をたたいて朝晩祈っていた姿を覚えています。町で時折制服姿のシスター達を見かけることはありましたけど、何だか変わった人達…という感じでしたね。それでも、当時熊本修道院のシスター達がしていた小さな施療院、今で言うところのクリニックみたいなところは町の人達もよく利用していました。

私自身も両親を早くに亡くした後にはシスター達のお世話になったこともあって、子どもの頃施療院で診てもらったことがありました。まだ小学生だったと思いますが、施療院の壁に飾ってあった、フランシスコが病者を抱きしめている絵と、敷地の両端にあった施療院と侍労院との間を行ったり来たりしている外国人のシスターたちの姿を見て、子ども心にも感銘を受けたことを覚えています。それからまもなくして、中学生のときに受洗しました。

 *修道生活を考えたのは?

やはり子どもの頃に見た看護師のシスター達の影響からか、私も将来は看護師になりたいと思い、看護学校に入学して準看の資格を取り、卒業後は東京の福音史家聖ヨハネ布教修道会がしていらっしゃる桜町病院に勤めました。当時は司祭、神学生、修道者などのために聖職者病棟というのがあったのですが、その担当として働きました。それが、病院の職員さんたちの間では、「聖職者病棟の担当になるのは将来シスターになる人」とささやかれていたようで、私もしょっちゅう「修道院に入るの?」と聞かれ続けていましたねっ。ヨハネ会のシスター達との関わりもほんとうに楽しく、同僚の職員さんたちにも恵まれてとても充実した毎日でしたので、やめたいと思ったことは一度もありませんでした。でもあるとき病院に当時FMMの修練長をしていたシスターが診察に来て、ヨハネ会のシスターから「あの方はFMMの修練長をしているのよ」と聞かされてから、何となく幼い頃の記憶がよみがえってきて、施療院の壁にあったフランシスコの絵、侍労院で働くシスター達の姿が心の中にずっと強く残っているのに気がつきました。そしてその頃ちょうど、戸塚に行ってみないかと誘われて修練長のシスターに会いに行き、すぐ入会が決まりました。桜町病院で働いて5年、25歳くらいだったと思います。迷いはありませんでしたね。

 *その後はどんな生活でしたか?

初誓願の後は東京聖母病院に派遣されて働きながら、他の数名の姉妹たちと一緒に、清瀬にあった看護学校に通って正看の資格を取りました。そこで有期誓願期を数年してから終生誓願の準備に入りましたが、その時には召命について少し迷いも体験しました。特別な出来事などは何もなく、日常生活の中の小さな事柄ばかりでしたが、“理想どおり”ではない自分や姉妹たちの弱さからくるあれこれが積み重なって、動揺してしまったんだと思います。でも幸いその思いを話すことのできる姉妹たちがいましたし、私のために祈ってくれるたくさんの姉妹たちの祈りに助けられました。そして何よりヨハネ会のシスターたちが私を送り出してくれた時に、「この道はいろいろと迷うことも多いでしょうけれど、もし違う道だと思ったときにはいつでも帰ってきなさい。」と言ってくださったことにずっと支えられていたと思います。それから終生誓願を立てた後は、また聖母病院や戸塚、奄美、前橋の老人ホームで働いてきましたが、振り返ってみると、どの勤めでも一緒に働いてくれた職員さんたちがほんとうに素敵な方たちばかりで、私は恵まれてきたなぁとつくづく思います。たくさん助けていただき、楽しかった思い出ばかりですし、いまも関わりを続けさせてもらっています。共同体生活の中での紆余曲折はもちろんありますけど、いつもいろんな人達の祈りで支えられてきたとほんとうに思いますし、この道は祈りの支えなくして続けることはできないんですよね。

 *力をもらうみことばは?

「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」マタイ25:40 このみことばが大好きです。特に老人ホームでお年寄りのお世話などをさせていただくときに、このみことばが浮かんできます。私ができることはとっても限られていますけど、いま自分が出来る事をして、それが誰かの役に立てるんだったら、それがどんなことだって満足です!