【新しい呼びかけに応えて ‐ 横浜修道院の創設 】 横浜一般病院からの要請
管区が総力を挙げて「正規修練院」の実現に向かっているにもかかわらず、資金不足がそれを阻んでいました。そのとき摂理的にも横浜一般病院から人材派遣の要請が入り、財政的に苦境にあった管区を救う道が開かれていったのです。本会が横浜一般病院の英国総領事を委員長とする国際病院管理委員会から要請を受けたのは1934年(昭和9年)のこと。横浜一般病院の経営にあたる当委員会の委員3名が、カトリック信者の医師に伴われて聖母病院の院長メリ・オブ・ジザスを訪れ、国際聖母病院と同じように外国人のために働く看護修道女の派遣を求めて来たのです。
本会に人材を要請してきた「横浜一般病院」は、横浜開港から僅か8年後の1867年 (慶応3年) に欧米人を中核とする委員会の手によって、外国人居留地に外国人のために建てられた日本最古の国際病院でした。開港以来、横浜は日本の国際貿易の中心地として最も栄えた港町で知られるようになりましたが、教会史においても第二次宣教時代に最初の宣教師が再上陸し、最初の教会を建てた場所として重要な位置を占めています。山手の「外国人居留地」にこの天主堂が落成したのは、パリ外国宣教会が「開港されたばかりの横浜、長崎、函館の町に宣教師を2人ずつ 居住させてよい」との政府の許しを得て、教会の組織立てに着手した1860年の翌年 (万延2年) のことです。これについて当時のジラ-ル師とムクニー師は次のような記録を残しています。「14か月もの長い労働の末、ようやく横浜の教会が出来上がったことを喜んでいる。この教会の献堂式は正月12日、あらゆる国とあらゆる宗教の居留者、又大勢の群集の中で挙行された。日本人は朝な夕な訪問して来る」と。
常に祈りに来る人でいっぱいの教会を見て、政府が黙っているはずがありませんでした。やがて宣教師は江戸に連行されて牢獄に閉じ込められたりしましたが、それでも「首都・江戸のそばに建てられたこの教会に数日間で一万人以上の日本人が各地から訪ねて来る。日本人にとってごく自然な好奇心が第一の目的であることは確かだが、これらの訪問は神と主・キリストと福音を大衆に告げる機会を我々に与えている」というのです。これがプロテスタントの多い横浜の港町で唯一のカトリック教会であり、いわゆる長い間「ヨ-ロッパ人の小教区」と呼ばれてきたものです。実際それから30年以上待たなければ、宣教師が外国人居留地から一歩出ることも、日本人町に住むことも許されませんでした。
通行証の時代が終ると、宣教師の行動範囲の広がりで日本人小教区が新設され、1932年(昭和7年)には従来のヨ-ロッパ人小教区に2つの日本人小教区が加わり、東京大司教区の重要な宣教拠点として発展していきました。