修練院の麹町移転-②
1935年(昭和10年)4月23日、最後のグル-プが麹町に到着して全員が揃うと、フランシスコ会司祭の手によって初ミサが捧げられました。そして、ベルギ-人の副管区長M.マグダラ、スイス人の修練長M.ディヴァン・パスツ-ル、フランス人の副修練長M.セルベロン、カナダ人のアシスタント役M.エディスタのもとで、9名のノビスと7名のポスチュラントは麹町での国際性豊かな修練生活を開始しました。以下はM.セルベロンが記録した日誌から読み取った麹町修練院の生活です。
・管区長のM.ピエ-ルは、ノビスたちが本会の精神を深く心に滲みこませ体得できるように、姉妹の一人ひとりに細やかな心遣いをしていました。度々の訪問、祝日の電話電報、手紙などを通して折りあるごとにノビスたちと交わり、頻繁に会長や全世界のFMMのニュ-スを伝え、姉妹の声にもよく耳を傾けていました。戸塚に広い土地を見つけた頃、熊本からM.メルセデスと畑に詳しいM.バジリアンを修練院に招き、農業や家畜の飼育についてノビシアの姉妹たちに話してもらいました。久留米修道院閉鎖後、中国に派遣されたM.メルセデスは1932年(昭和7年)に8年ぶりで上海から熊本に戻り院長をしていました。
・副管区長のM.マグダラは管区長と思いを一つにして、東京修道院あげてノビシアを精神・物質の両面にわたり支援しました。毎週2度、自らもノビシアを訪問して会長や管区長のニュ-スを忠実に伝えていました。特に戸塚の土地や建築のことで奔走中も、ノビスたちにその成果を伝え祈りを求めました。M.サン・ロンジェンは週一度ノビスに誓願要理を教えるために東京から来院。東京のアシスタントのM.ド・サン・ディエ-ルは、M.エディスタの買い物の手伝いに来院。また病人が出ると直ちに聖母病院へ。病院長のメリ・オブ・ジザスも必要に応じて診療に来院。管区に派遣されてくる姉妹や修練院を見たことのない姉妹が上京してくると、修練院へ案内し、管区や本会の動きを修練者に感じさせました。
・生活の糧を得るためにアトリエを開始。アトリエの品物を売るために副管区長、修練長、アシスタントはアメリカやヨ-ロッパへ送るだけでなく ベルギ-大使館で開催された展示即売会やチャリティバザ-などへ出向き、また東京修道院のM.サン・ロンジェン、M.デニス、M.コンソラトリスは外国船や軽井沢と神戸で催されるバザ-にも出かけました。
・修練院が日本カトリック教会の中心地にあるおかげで、毎週カテケジスを教えに来院するシャンボン大司教を通して、教会や社会全体の動きを知ることができました。また年に4回のセレモニ-も大司教の司式のもとに行われました。日々のミサと聖体降福祭はフランシスコ会の司祭が受け持っていましたが、それが不可能な時には隣の出版部から司祭が来院。既に述べた通り、その中に近い将来司教となって戦時下の教会を担うことになる横浜教区の荒井師、四国・大阪教区の田口師、長崎・鹿児島教区の山口師がいました。社会で何か重大なことが起きると、修練者たちの祈りにも熱が入りました。また何か難しい問題が生じれば いつでも教会の指導者に相談することもできたのです。その一例として、1936年(昭和11年)2月26日に起きた2・26事件があります。青年将校によるク-デタ-は失敗に終わりましたが、大臣や政府高官の暗殺は政府の宗教に対する態度を一変させ、麹町の修練院を不穏な空気で包んだのです。事件の2日後、修練院にかけつけたM.マグダラは電話でシャンボン大司教に相談の上、2名のノビスと9名のポスチュラントを一時管区館へ疎開させ、事態が収まるまで麹町から離れて生活させたこともありました。
・他方、修練院の周辺にカトリック学校があるおかげで、召命の面でも新しい芽生えが見られました。麹町の近辺にあるサン・モ-ル会の雙葉学園の卒業生や女学生たちも、修練院の小聖堂に顕示されている聖体に心を惹かれて聖体訪問に来ることが度々ありました。当時は娘がカトリック者になることさえ反対する親が普通でしたから、大抵親に隠れて内緒で来ていました。祈り、聖書や公教要理を学び、将来のことを相談していたのです。修練院の姉妹たちは、いずれ信者か修道女になる日を夢見て熱心に祈っている女学生たちを「カタコンブの少女」と呼び、時が熟するのを待ちつつ若い召命のために祈り続けたのでした。
このように2年契約で借用した麹町の仮修練院での生活が終わりに近づくにつれ「グロッタ・フェラ-タのような修練院」を戸塚に建てるという夢が現実味を帯びてきました。不可能と思えたプロジェクトが実現していく背景には1935年(昭和10年)12月に創設された横浜修道院の強力な資金援助がありました。