修練院の麹町移転-①
1934年(昭和9年)12月、実際、修練院にいる7名のノビスとポスチュラントのほかに8名のアスピラントが病院や養老院で働きながら入会の日を待っていたため、どうしても大きな家が必要になり、この有期誓願式を最後に聖母病院敷地内の修練院が麹町の仮住まいへ移されることになりました。1935年(昭和10年)の引越しを前に、再び新しい動きが見られました。それは1月に2人のノビスがグロッタ・フェラ-タの国際修練院で修練を受けるため出発したこと。3月に日本の副管区長を務めていた東京の院長、M.アポリナリアが中国のチ-ナンフへ派遣され、その後任にベルギー人のマリ・ド・マグダラが北京から到着したこと。そして同じ日に、日本の修練院のためにグロッタ・フェラ-タからフランス人のマリ・ド・セルベロンが副修練長として、カナダ人のM.エディスタがアシスタントとして派遣されて来たことです。新しい副修練長とアシスタントは日本語を学びながら引っ越しの準備に余念がありませんでした。
移転先は、東京で最も住民の少ない麹町にある女子跣足カルメル会の旧修道院でした。この建物は同会がシャンボン大司教の招きで1933年(昭和8年)2月に来日して以来、2年間仮住まいとして使用していた家ですが、1か月前に石神井の大神学校近くに新築した修道院に移転していたため空き家になっていました。それをシャンボン大司教の好意で本会が修練院の仮住まいとして2年契約で借りることになったのです。従って、この2年間にグロッタ・フェラ-タのような修練院を建てる土地を探す務めは副管区長のM.マグダラの手に委ねられました。引越しは1935年(昭和10年)4月21日より3日間行われ、聖母病院の車に荷物を乗せ、3つのグル-プに分かれて麹町の仮住まいへ移動しました。修練長のM.ディヴァン・パスツ-ルは、およそ2年半過ごした聖母病院敷地内の日本家屋をあとにして、麹町のカトリック出版部の敷地内に一時的に建てられていた旧カルメル会修道院へ移りました。
高い垣根で囲まれているこの修道院から少し離れた所に、日本の教会にとって非常に重要な情報機関であるカトリック出版部の建物がありました。週刊誌「カトリック新聞」と月刊誌「声」「復活」などの宣教に関する出版物のすべてがここで出版され、管理責任者の荒井勝三郎師、編集責任者の田口芳五郎師、山口愛次郎師など、将来日本の教会を担う有望な青年司祭が20名程の職員と一緒に働いていました。時代は既に日本の教会にとって危機の時代に入っていました。1933年(昭和8年)第4代駐日ロ-マ教皇庁使節のパウロ・マレラ大司教が横浜に入港した年のパリ外国宣教会の報告書によれば 「政府は法の力によってキリスト教を大逆罪、反道徳主義、そして国家安泰を危うくする『邪宗』と決めつけ、外国人弾圧を決定、出版物の検閲を強化し始めていた」のです。教会の指導者たちは各地で起きていた教会弾圧や外国人宣教師スパイ事件に対して政府に抗議していました。特に田口師は、軍国主義一色に染まろうとしていたこの時代に、出版活動を通して軍部に真っ向から反論していました。麹町の修練院はこのような緊張状態の中に置かれていたのです。それにもかかわらず、修練院は祈りと安らぎの場として平穏でいられたのです。