「オブラ-ト」修練院の閉鎖と正式入会-②
1925年 (大正14年) 11月7日にオブラ-トの修練院が札幌に開設されて以来、 1933年(昭和8年)の閉鎖までの8年間に、12名のオブラ-トが修練長のM.ステル・デル・ゼのもとでフランシスコ会キノルド司教の大きな支持を受けながら、宣教者としての堅固な養成を受け、オブラ-トの誓願を立てていました。その宣教活動は札幌周辺の最も貧しい病人や浮浪者にまで及んでいました。事業の場でも、オブラ-ト以外に日本人の会員が一人もいない札幌の共同体にとってオブラ-トの存在は貴重でした。地域の教会と社会の必要に応えていくうちに、病院事業から様々な事業が派生し発展していく中で、外国人の多い共同体の良き助け手となっていたのです。オブラ-トの修練院閉鎖と正式入会の認可通知がロ-マから届いた時の状況はこのようなものでした。1933年(昭和8年)10月4日、摂理的にも聖フランシスコの祝日に、院長のM.ヒアシンタがオブラ-トの上京を促す管区長の手紙を受け取ると、にわかに札幌の共同体が動き出しました。当時札幌には10名、北広島には2名のオブラ-トが働いていました。平均年齢36歳という働き盛りの「唯一の日本人修道女」が一斉に事業の場を去るのですから、人材不足もさることながら 外国人の姉妹たちの不安は募るばかりでした。それでも「すべてを最もよく計らってくださる神」に支えられながら、共同体は12名のオブラ-トを送り出す日を迎えました。10月27日には院長のM.ヒアシンタと最初の2名、29日には修練長のM.ステル・デル・ゼと5名、そして11月2日には最後の5名が東京へ向かいました。一行の到着で修練院の古い日本家屋は23名に膨れ上がり 一層窮屈になりましたが、活気に溢れていました。
11月4日に元オブラ-ト12名の着衣式が内輪で行われ、一同はオブラ-トの聖服姿から本会の聖服姿に変わり、新しい気持で修練生活の第一歩を踏み出しました。M.ステル・デル・ゼは 紅潮した12名の幸せそうな顔を見届けると、新しい任地先の北広島へ出発しました。それから「一年と一日」が経過。しかし元オブラ-トの誓願式はこの日ではなく、会長の温かい心遣いで「本来のセレモニ-」と同じ12月に行われることになりました。1934年(昭和9年)12月15日、司式者のシャンボン大司教は「日本の教会史上一度もこれ程大勢の誓願者を出したことがない」と感動し、自ら率先して一同と共に記念撮影におさまりました。お祝いの席で、12名のうち3名が札幌、5名が北広島へ派遣されることが発表されると、歓声の渦が湧き起こりました。その翌年、北広島の共同体は札幌から分離独立して「北広島修道院」となりました。