マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

FMM日本管区の歩み-62

「オブラ-ト」修練院の閉鎖と正式入会-①

会長は、日本人のメンタリティに合わなくなった「オブラ-ト」の修練院を閉鎖し、オブラ-トが正規の会員として入会できるように申請書を同聖省に提出しました。それには次の理由が書かれていました。

オブラ-ト修練院は、前会長M.サン・ミッシェルの願いにより札幌教区キノルド司教の賛同を得、1926年11月7日付の布教聖省の認可に基づいて札幌に設立された。初めは順調であったが 日本人のメンタリティが急速に変化してヨ-ロッパ人と同等であることが要求されるようになりオブラ-トの召命が少しずつ減少し、現在皆無に等しい。オブラ-トは東京に移転する修練院へ正規のFMMとして入会することを強く望んでいる。キノルド司教の意見でもあるが、オブラ-ト修練院の存在意味はなくなってきた。現在この修練院には3年の有期誓願者が4名、1年の有期誓願者が4名、ノビスが4名いる。この12名のオブラ-トに東京の修練院で一年間の修練を受けさせ、その後ふさわしいと認められた者に3年間の有期誓願を立てる許可を与えてくださるよう教皇に申請する。

以前にも述べたように、オブラ-トはその土地出身の会員でなければ受け入れられないような辺境地で、宣教効果をあげるために設けられた本会の制度で、アグレジェとは違って、あくまでも本会の会員でした。オブラ-トは本会に属していながら独自の使命を果たすために本会の共同体から離れた辺境の地に住む土地出身者ですから、本会の会憲で定められている「聖体の礼拝」と「どこへでも派遣される」義務が免除されたオブラ-ト独自の会憲と聖服をもっていました。この制度は中国、ビルマ、チベット、インドなどの最も辺境な地方では意味がありましたが、日本のように急速な発展を遂げた国では、かつてのエゾ地でさえ、もはや「辺境の地」とは言えず、その存在意味は次第に失われていったのです。 実際、札幌と北広島を訪問したことのある前管区長M.クリゾストムは、将来オブラ-トがこの国で受け入れられなくなることに気づき、2つの修練院を統合する必要性を感じていました。会長と本部評議会はこの考えに反対しませんでしたが、会憲で定められている義務の一部を免除されているオブラ-トが正規の会員となるためには正規の修練院で厳しい会憲を体験的に学ぶ必要があると考え、ここで一年間修練期を過ごしたあと、3年の有期誓願を立てる許可を福音宣教聖省に申請したのでした。オブラ-トの修練院閉鎖と、すでに誓願を宣立していたオブラ-トの正規修練院への入会が許可されたのは1933年3月17日のことでした。