マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

FMM日本管区の歩み-59

熊本に開設された日本最初の修練院-①     

本会の来日から最初の修練院開設まで、日本のFMMは長い道のりを歩んできました。

1900年(明治33年)コ-ル師、有安師、深堀師の紹介で長崎の旧信者の家庭から10代の少女と20代の女性の4名が琵琶崎に働きに来る。                                                                                1901年(明治34年)待望のアグレジェのアスピラント誕生。              1902年(明治35年)管区長の3月3日付回状-1880年総会の「宣教地(アジア、アフリカ、南アメリカ等)の召命に関する決定事項」の確認:宣教地出身者の場合、25才以上でなければ 修練院入会の許可は与えられない。それまでプロバンダで生活しなければならない。但し本部評議会の承認があれば例外を認める。                                                                                            1903年(明治36年)宣教地における召命に関する総評議会の決定事項:                    ・先ずアグレジェになること:フランシスコ会第三会の会則に従い、アグレジェのベ-ルと着衣を受けた時から志願期が始まる(21歳以上)。                                                                                ・一年後、アグレジェとして第三会の私的誓願を立て、毎年更新する。                                     ・アグレジェとして10年間生活した後に、33歳以上の誠実なアグレジェは「ス-ル」として入会が許可される。                                  1904年(明治37年)アグレジェ2名 熊本でフランシスコ会第三会入会。日本で300年ぶりのフランシスコ会第三会の入会式となる。                        1906年(明治39年)M.マドレヌ・ド・パジ管区長の要望により熊本修道院にアグレジェのためのカテキスタ学校が開設される。                           1907年(明治40年)アグレジェ2名 フランシスコ会第三会の私的誓願を立てる。                                     1908年(明治41年)プロバニスト(アスピラント)の反抗:新聖堂の完成により、これまで自由に出入りできた修道院の出入りが禁止されたのを不服として、M.コロンブに書いた抗議文をきっかけに、9名のプロバニストが平戸と佐世保の家に帰される。以後プロバニストの受け入れが厳しくなる。                                      1910年(明治43年)コ-ル師のカテキスタ学校とカテキスタ事業の開設により、熊本と人吉の適性のあるアグレジェが在籍し、カテキスタ事業に従事する。              1911年(明治44年)宣教地における邦人の入会に関する総評議会の決定事項:

「中国人と日本人の入会」について

8年の経験を経て、本会は中国人と日本人を「正会員として」本会に受け入れることに決定。白い聖服を着用し、以下の規定に従い養成を受ける。               規定1:プロバンダ期間は本人の年齢と条件に従って管区長が決定する。プロバンダはどの修道院にでも設置できる。                             規定2:志願期(ポスチュラ)は3か月、どの修道院にでも設置できる。         規定3:ノビシアは2年。中国はチェフ-に、日本は琵琶崎に、それぞれ修練院を置く。ポスチュラントの着衣には本部評議会の認可が必要。                   規定4:適性のある者に3年の有期誓願宣立が認められる。               規定5:2回目に尚3年の有期誓願更新。                       規定6: 終生誓願宣立。中国人と日本人の修道女は本会の会員として長上の命により本会の修道院のどこにでも派遣される。

修練院の開設により、日本人もこれまでのようにアグレジェの生活をしなくとも、直接正会員として修練院に入会できるようになった。                        1911年(明治44年)1月3日:熊本修道院に修練院開設。アグレジェとして10年間過ごした2名がFMMの着衣を受け、M.コロンブ院長のもとで修練院の生活を開始する。                                       1913年(大正2年)2代目管区長M.ステファナの時代に本会の「プロバンダに関する一般指針」が出された。