マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

FMM日本管区の歩み-58

管区評議会と院内評議会の設置-②

1934年~1938年の間に16回の管区評議会が開かれていますが、当時の日本とフィリピン間の交通事情を考えると、両国で毎月2回開かれる評議会に参加するのは容易ではありませんでした。当時、全評議員が東京修道院に属し、そこの院内評議員と兼任していましたが、管区長がフィリピンと日本の全共同体の事情を評議会でよく説明し分かち合うことによって、この限界を乗り越えていきました。

管区の組織づくりの最も重要な土台である管区評議会の議事録には、M.ピエ-ルが誕生したばかりの管区評議会を大切に育てていった様子が見られます。先ず会議の度に、各管区・各共同体の実情を正確に把握して、それを管区全体が把握できるように行き届いたオリエンテ-ションをするとともに、M.マルグリット会長の考えを伝えて、管区とロ-マ本部とを繋ぐかけ橋となっていたこと。管区長の豊かな経験を活かして広い視野から判断し、時代の動きとその場の特殊性を敏感に捉えて適切な勧めを与えつつ、リ-ダ-シップを発揮していること。具体例をあげると、東京聖母病院に関して、時代の要求に応じた設備の必要性や若い人を育てる事業に発展させるために「前進するように」と勧めています。末信者で病気の親がいる姉妹には、親に会いに行く許可を与え、院長のM.ステル・デル・ゼには、一人で天皇陛下の宴会に出席することを認めています。いずれも当時の慣習としては異例のことでした。

また若い姉妹たちに強い関心を示し、その養成に熱意を燃やし、日本で初めて2名の修練者をグロッタ・フェラ-タにあるFMMの国際修練院へ送り出しました。更に日本管区にも郊外の広い土地、空気のよい土地に養成を目的とした本来の修練院を建てる必要性があることを強調しています。また管理運営のセンスを活かして聖母国際病院の規約を作成し、具体的な提案と勧告を与えています。例えば、事務の姉妹は必ず事務室に居るようにする。そのために事務室を不在にするような仕事を頼まないこと。不和の原因をなくすために各病棟には必要なものを必要な数量だけ揃えておくこと。調理人がもっと料理に専念して質の高い料理を作ることができるように、鍋洗い専門の人を台所に置くことなど。

また管区長の社会正義に対する意識も高く、特にアグレジェに対する処遇を改善して、霊的援助も与えられるように指示し、フランス語を学ぶのが難しいアグレジェには漢字の勉強をさせました。志願者に対しても「使用人のように働かせてはいけない」と述べています。こうしてみると、最初の頃の管区評議会が評議員の自主性よりも管区長の報告が多いという限界のもとに行われざるを得なかったとしても、この管区評議会が今後益々豊かなものに成長していくことを願いつつ、リ-ダ-シップを発揮した管区長の心の大きさ・広さがこの限界を十分に補っていたと言われています。

M.ピエ-ルは、前任者のM.クリゾストムが1927年から既に組織的に始めていた、各共同体の年次報告の提出を定着させ、これによって全共同体の年次報告書が管区館に集められ、一括して管区の「記録文書保管所」に納められるようになりました。1934年の年次報告には各修道院に評議員3名~4名の院内評議員が記録されていることから、院内評議会が開かれていったのはこの頃であると考えられます。M.ピエ-ルは、管区評議会の場合と同様、2年がかりで各共同体の院内評議会設置を準備してきました。また各共同体の使徒職の場を宣教の場とするために、事業も組織化の必要がありました。キリスト教を受け入れない日本の社会において、キリストの真理と愛を人々の心に伝えるには、事業の場を通して福音を宣教するだけでなく、事業の存続とその質を高めるために時代の要請にも応えていかなければならなかったからです。