再び「迫害時代」を迎えた教会と宣教修道会の危機-②
国の新しい法律によると、女子修道会には法的地位が全く認められていませんでした。従って、女子修道会が存続するためには事業を通してしか道はなく、政府によって認可された社団法人が どうしても必要でした。この時すでに、本会修道院の全事業が本会の社団法人に登記されていたことを思うと、いかにシャンボン大司教に先見の明があったかが分かります。
9月には、あまりにも宗教的すぎるという理由で文部省が禁じた修道服について、教会は「修道女ハ俗服ヲ着用ノコト」という通達を女子修道会へ送っています。11月には、政府の新聞・雑誌・出版物の規則に対して、教会は「カトリック新聞」と「声誌」以外の出版物の廃刊を決定しました。さらに修道院の規則書、公教要理、祈祷書、聖歌集の改訂などについて、例えば「愛国心を培うため」という理由で、祈りや歌の中に「聖人」の代わりに「国家の英雄」を、「王たるキリスト」の代わりに「天皇陛下」を、更に「大和の国」の補足などが要求されました。特に修道院や事業の規則書の改訂では「お国のために」働くことが強調されています。このような命令に対して、プロテスタント教会が政府に強く抵抗するなかで、カトリック教会はそれ程大きな変更を強いられずに済んでいます。
政府はキリスト教の教育事業を厳しく統制しました。ミッションスク-ルに対して国家神道に基づいた教育を命じ、アメリカ的、ヨ-ロッパ的、宗教的なものをことごとく排除させ、神社参拝、伊勢神宮から下賜される「大麻」の誇示、「御真影」の安置などを強制し、命令に従わなければ閉校を強いる勢いでした。特に男子校を愛国心と軍人精神涵養の場と考えていた文部省は、各校に将校を配属して最も厳しい監視の目を光らせていたのです。この統制は徐々に病院や福祉事業へ広がっていきました。
早くもその翌年1941年3月には、すべての外国語が日本語に変えられました。本会に関して言えば、日本のカトリック教会が「日本天主公教教団」となったように「マリアの宣教者フランシスコ修道会」は「日本天主公教聖母宣教会」に、社団法人「マリア奉仕会」は「大和奉仕会」に変更され、さらに「国際聖母病院」は「国際」を除去して「聖母病院」に改称されています。それでも事業名があまり変更されずに済んだのは、開設当時の会長の意向により「日本人に親しみやすい日本語の名称」がつけられていたためと思われます。
