マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

FMM日本管区の歩み-86

再び「迫害時代」を迎えた教会と宣教修道会の危機-①

管区長M.ピエ-ル・ド・ジェズが帰天した1940年(昭和15年)は、日本のカトリック教会にとって存亡の危機に見舞われた年でした。政府は国家神道の強化を図るため新しく作成した「宗教団体法」の施行により、神道以外の宗教に対する統制を一層厳しくしたのです。このような局面を迎えて、教会は文部省主催の宗教団体法に関する神佛基三教代表者協議会に参加する一方、全国教区長協議会を開いて協議を重ねながら「カトリック教会」として存続する道を探っていました。このような状況の中、管区長を失った日本管区は管区長代行のM.マグダラのもとで多難な道を歩み始めました。

1940年(昭和15年)、日本の教会は4月1日に発効されたばかりの「宗教団体法」にどのように対処すべきか苦慮していました。これまで日本のカトリック教会は、法的にはあくまでも「非公認宗教」であって単なる宗教結社に過ぎず、政府や公式機関の正式呼称は「神仏道以外の宗教」だったのです。従って、この国でカトリック教会を存続させていくためには、この宗教団体法に基づいたカトリック教会の「教団設立」を急がなければなりませんでした。さもないとカトリック教会は余儀なく日本から締め出されるか、他の宗教団体に合併されることになるからです。

それにしても、カトリック教会の教団設立のために政府が課した制約は余りにも厳しいものでした。教団規則書からロ-マ、教皇、教皇庁(聖座)と言う語を削除すること、日本人教団統治者のもとで宗教活動を行うこと、公教要理・祈祷書・聖歌集などを改訂することを要求してきたからです。つまり政府がカトリック教会に要求したことは、ロ-マ教皇庁との関係を断ち切り、外国人司教団を日本人司教団に替え、すべてを政府の宗教政策の枠内で活動することで、それは カトリック教会の存続にかかわる問題でした。これに対処するために、教会は教団規則起草委員会を組織し、横浜教区のシャンボン大司教に議長の務めと草案について政府と交渉する役を委ねました。同委員会は、教区長会議と合同で協議を重ねた末、政府の要求を受け入れることにしました。

当然のことながら、この決定に対して教会が「カトリック教会」でなくなるという危惧の念から「むしろ妥協するよりは殉教を受け入れたい」と言う司祭や信徒もいました。この不可避の妥協について、シャンボン大司教は教区長たちに「自分たちをカトリック者たらしめるロ-マ教皇、および教皇庁との強固な結びつきは変わらない」ことを保障しています。9月の全国教区長協議会における教団認可申請に伴う教団規則草案の最終討議の結果、委員会の決定通りに議決されました。

こうして、日本カトリック教会は「日本天主教教団」設立の認可を申請する運びとなりますが、この頃から政府の統治が厳しくなりました。既に軍部の勢力下に置かれていた宗教団体担当官庁の文部省は、キリスト教の諸団体に対して超国家主義体制に従わせようと強硬手段に出たのです。政府の狙いは「キリスト教の日本化」にありました。教会や修道会に対する監督も日毎に厳しくなり、日本のカトリック教会を代表する土井東京大司教に、強引に様々な要求を押しつけてきました。これに対して教会は、全国教区長協議会で討議するとともに、女子修道会の代表者を集めて宗教団体法の実施に関する指針を与えました。