マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

FMM日本管区の歩み-54

第5代管区長 マリ・ピエ-ル・ド・ジェズ  (1932-1940)

「日本の殉教者の聖母」管区

1932年の総会で新設された「日本の殉教者の聖母」管区は日本とフィリピンから成り、新管区長マリ・ピエ-ル・ド・ジェズ (M. Pierre de Jesus) のもとで新しい旅立ちをしました。34年前 創立者は日本最初の修道院を「日本の殉教者と聖母の訪問」の保護のもとに置き、娘たちにはフィリピンから日本へ派遣されて長崎で殉教した聖ペトロ・バプティスタとその同志に倣ってフランシスコの精神を再び日本の地に甦らせてほしいとの思いを伝えました。それ以来、南と北で姉妹たちが蒔いたフランシスコの花の種子は首都の東京でも芽を出し、成長し、そして今、創立者が愛した「日本の殉教者の聖母」の名をもつ独立した一管区として誕生したのです。創立者に直接養成されて、M.ピエ-ルは誓願宣立と同時にスペイン最初の修道院で院長と修練長を務め、そののち会長代理としてペル-管区を訪問し、やがてアルゼンチンの管区長に任命され、それから第一次世界大戦後の2年間を第3代会長M.マドレヌ・ド・パジの副会長としてロ-マで奉仕し、1920年の総会でフィリピン宣教地の責任者になりました。その時も、日本はフィリピンと同じ「無原罪の聖母」管区に属していましたが、1926年の総会でそれぞれ「王たるキリスト」管区と「勝利の聖母」管区に分かれ、再び1932年の総会で日本とフィリピンが一つに結ばれたのです。

新管区長のM.ピエ-ルは、ロ-マで総会を終えたあとマルセイユから日本へ向けて船旅につき、1932年 (昭和7年) 5月25日、無事横浜港に到着し、東京修道院の共同体に温かく迎えられました。修道院は病院の開設と同時に創設時の日本家屋から病院の3階に移動していました。今や空き家となった日本家屋は間もなく「新しい修練院」として使用される予定で、既に4名の志願者が病院で働きながらその日を待っていました。

管区長が最初に手がけがことは、日本とフィリピンの姉妹たちがお互いに知り合い、交流を深めつつ一致して使命を果たしていけるように、管区の全共同体に手紙を書くことでした。視力の弱い管区長は、M.クリゾストム時代から管区秘書を務めていたM.アデマ-ルを伴い、その手をかりて管区ニュ-スを書きはじめました。以下は管区長が就任挨拶として書いた手紙の一部です。

フィリピンと日本は「日本の殉教者の聖母」に委ねられた同じ管区に属しているのですから一つの心・一つの精神で結ばれるように切に望みます。私は最初の手紙を書くのに聖ペトロの祝日を選びました。聖ペトロの性格も信仰の精神も、本会の力である一致について語っているからです。神が与えてくださった長上への一致とロ-マ本部との強い絆のお陰で大きなことが成し遂げられています。創立者とその後継者である代々の会長様方は真理と愛における心と精神の一致を常に保ち続けています。実際、日本とフィリピンが相互に理解を深め一致を強めなければならない大きな理由があります。聖ペトロ・バプチスタとその同志たちはフィリピンのFMMが現在住んでいる3つの修道院で生活していました。そのうち2つは350年前に建てられたものです。ここから出発して日本へ福音宣教に出かけ、そこで殉教しました。聖母は日本とフィリピンの保護者なのですから、フィリピンの信仰を再燃させて日本の福音化に備えてくださることでしょう。この意向のもとに、寛大に生きることによって日本とフィリピンの人々のために光を獲得してまいりましょう」

当時の日本は、第一次世界大戦後全世界に広がった金融恐慌と深刻な不況の後遺症にあえぎ、政党内閣ではどうにもならないという気持ちの底にファシズムの影が忍び寄っていました。1928年 (昭和3年) には特別高等警察(特高)を全国に設置して「外人」を疎外し始めました。そういう情勢の中で世界中が第二次世界大戦へと傾いていきますが、それは「会長職というこの十字架の愛と苦しみの重荷を受け取った人」M.マルグリットにとっても大試練の激動期の始まりでした。この総会で副会長に再任されたM.ルシエンヌと本部評議員に選出されたM.サンタニェスは、終始、M.マルグリットの両腕として本会一致の絆である会長を助けました。摂理的にも総会で強調された事業の組織立てと会員の職業教育が激動期を乗り越える力となっていったのも事実です。

「日本の殉教者の聖母」管区も例外ではありませんでした。遠隔の日本で宣教奉仕に励んでいる姉妹一人ひとりに対するM.マルグリットの温かい思いと期待を携えて到着した管区長は、前任者のM.クリゾストムが創設した東京修道院の存在とその重要な役割をよく理解し、本部評議会の決定に従って管区館の機能を整え、事業を組織立て、南と北にある2つの修練院を統合して中央の東京に養成を目的とした正規の修練院を確立し、創立者の精神を一層深めるために会員養成に取りかかりますが、これらの土台となる管区館を東京修道院に設置するまでに多くの試練を乗り越えなければなりませんでした。