1932年の総会
1931年(昭和6年)8月4日に帰天した第4代会長 M.サン・ミッシェルは、第一次世界大戦で痛めつけられた会員の健康回復のために、ヨ-ロッパ各地にサナトリウムを開き、本会を戦争の荒廃から建て直しました。M.サン・ミッシェルの会長職10年間に1,258名の会員を新たに宣教地に派遣し、教皇ピオ11世より「教会の忠実なはしため」という言葉をいただきました。副会長のM.ルシエンヌ・ド・ジェズはその志を継いで、6か月間本会を治めました。その期間に1923年 (大正12年) よりマリア・アスンタの列福調査を進めていた教会当局によって「諸徳の英雄性に関する宣言」が公表された喜びを本会全体に伝える恵みを受けます。これはM.ルシエンヌにとって特別な喜びであったと思われます。というのは、M.ルシエンヌがまだノビスの頃、7人の殉教者を出したパスカル修道院再建のために、マリア・アスンタとともに創立者によって中国へ派遣され、そこで一緒に生活していたからです。
1932年(昭和7年)2月11日、マリア・アスンタが諸徳を英雄的に実行したことを告げる教皇の宣言式を待つ喜びに包まれて総会が開かれ、第5代会長にマリ・マルグリット・デュ・サクレ・ク-ル (M. Marguerite du Sacre Coeur) が選出されました。2月28日、新会長と総会メンバ-は バチカンでマリア・アスンタ・パロッタの尊者の宣言式に参列する恩典に授かりました。奇しくもこの時に演説された教皇の声が、ラジオ・バチカン放送の第一声となって全世界に流されたのです。それは「非凡なことは何一つせず、ただ日常のこの上もなく平凡なことを全てキリストのために極めて非凡に果たした」とマリア・アスンタを称える教皇の言葉でした。
日本では東京修道院創設以来、度々本会に関する記事を掲載していたカトリック新聞が、1932年4月3日発行の新聞で、FMMの総会開催と後任会長にM.マルグリットが選出されたことを報じるとともに、総会参加者が教皇聖下に拝謁の光栄に与った際に、日本、インド、セイロン(スリ・ランカ)、ビルマ(ミャンマ-)、アルゼンチン、ペル-、パレスチナ、モロッコ、フィリピンなどの管区が献納した貴重な献上品を教皇が嘆賞されたこと、そして「忠実な神のはしため」マリア・アスンタが受けた栄誉について 教皇が感動的に述べられたことなどを詳細に伝えています。更に注目すべき報道は、1933年8月8日発行のカトリック新聞が第一面のトップに掲載した記事でした。この記事が主として伝えていることは「東京の聖母国際病院、札幌の天使病院、熊本の待労院を経営しているFMMは比較的新しい修道会であるが、その発展ぶりは目覚しく、今では全世界に拡がり、修道女数は6千を突破している」ということで、具体的には全世界で本会が経営している孤児院、病院、ライ病院の年間収容人数をあげています。このように日本においても、FMMは教会からも社会からも注目されるようになっていました。