マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

青方修道院(1973年11月3日)

*創設時の姉妹たち:Sr.原陽子  Sr.山﨑イサ  Sr.宮崎静子  Sr.藤澤フサ子  Sr.田村恭子

小値賀は管区最初のフラテルニテで、初めの頃はいろいろと難しいこともありました。やはり昔のやり方で新しい土地に入っていくというのは、無理があったと思います。1972年に小値賀から大曽に移り、仮住まいの生活をしながら、大曽の町立保育園で働きました。大曽は、迫害時代にキリシタンたちが隠れ住んだ土地柄で、信徒も多く、大曽教会で毎日のミサもありましたが、近隣の青方は巡回教会で町の福祉会館を借りていました。当初は大曽に創立を検討していましたが、最終的には青方に創立が決まり、司教様が購入された土地に修道院が新築されました。神父様も信徒の方々もとても喜んでくださり、本当に嬉しかったです。その後は修道院の1階でミサが行われるようになりましたが、1カ月も経たないうちに参加する信徒がどんどん増えてきました。子どもたちは学校に行く前にミサに来て、学校帰りに、また教会で要理を学ぶのが日常となりました。その後「自分たちの教会を建てよう」と、お金を出し合って瓦を買ったり、大工の信徒が協力して、1年後には「青方教会」が新築されました。姉妹たちは教会での初聖体や堅信の準備、公教要理、香部屋係、信徒の家庭訪問から、子どもの怪我の手当てまで、ミサの司式以外は何でもしました。一大決心だったのは、生後1カ月にも満たなかった赤ちゃんを預かったことです。長崎から転入してきた学校の先生夫妻に赤ちゃんが生まれたのですが、青方の保育園は乳児を受け入れていなかったため、預けるところが見つけられず途方に暮れて修道院に来られたのです。私も乳児の世話の経験はなかったので、共同体で何度も話し合いましたが、結果として引き受けることを決め、その後1年間赤ちゃんを朝から夕方まで修道院で預かりました。他の姉妹たちがそれぞれ保育園や教会の務めに行っている時は、Sr.藤沢が本当に良くお世話をしてくださり、赤ちゃんはすっかり彼女に懐いて、その後大人になっても関わりが続いていました。また、近所に住んでいた信徒の漁師さんは、お酒が入ると修道院を訪ねて来て、自分が神学校に行っていた頃の話を何度もしてくれました。「こういう話は女房にはわからないから…」ということでした。 みんな懐かしい思い出です。

*1883年~1885年
派遣された当時は、車は共同体に1台だけでしたが、神父様がもう1台購入して下さり、大曽と跡次にそれぞれ車で行っていました。一番大変だったのは20人以上いた子どもたちの堅信の準備で、いたずら盛りの中学生の男の子たちを相手に喉をからしていました。楽しかったのは「釣り」です。子どもたちと一緒に船着き場に行って、魚釣りというのを初めて体験しました。と言っても、私は魚のかかった籠を引き上げるだけで、後は全部子どもたちにしてもらったのですが。釣りというものをそれまでしたことがなかったので、すっかりハマってしまい、その後も共同体の責任者だったSr.志藤と一緒によく行くようになりました。それからSr.志藤と一緒に大曽教会の聖歌隊の指導もしていましたが、メンバーは15人位の高校生の女の子がほとんどだったので、学校が終わってから週1回集まって楽しく練習していました。

*1884~1888年
前任のSr.浜中に代わって、跡次教会に行きました。教会の信徒の方々はとても親切に受け入れてくださいました。信徒は漁師さんが多く、お互いに縁戚関係にある家族が多かったです。その後、大曽教会の神父様が異動になり、新任の神父様のための昼食作りにも行くようになりました。小さな子どもたちは可愛かったし、両親は信仰教育に熱心で協力的でした。共同体は皆でひとつのミッションをしていたので、自然にコミュニケーションがとれて、お互いに協力し合っていたと思います。よく一緒に海に行って過ごし、楽しく過ごしました。父親が船に乗っているため長く不在となる子どもたちにとって、教会の存在は、特に友達にも会える楽しい場所として大きな役割を果たしていたと思います。