マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

イタリアのコロナウィルスの困惑を生きる

人懐っこさが特性のひとつであるイタリアのアッシジ共同体です。

流行り始めは遠くのことのように思えたコロナウィルスで、コローナ(イタリア語で王冠を意味する)を戴冠させておくな、さっさと王座から降ろせ等々、多くのユーモアを交えたコメントがSNS上を行き交っていたのでしたが、時が過ぎるうちに、知人の友人や親戚がコロナウィルスに感染した、知人の家族がコロナウィルスで亡くなったなど、話題が身近に迫り、みんな本気で自分の実生活内に危機感を持つようになっていきました。

私の友人(北イタリア在住)の他修道会のシスターのところでも3週間に7人の高齢シスターズが次々とコロナウィルスにかかって亡くなり、看護にあたっていた自分自身も隔離され茫然としている、というメッセージを受け取り、明日は我が身と、ショックを覚えました。彼女曰く「本当に感染力が強く、あっという間に悪化していくのよ。」

この非常時にあたり、クリスチャンにとって最もキツかったことは、教会が閉鎖され、祈るために教会に入ることができなくなったことではないでしょうか。 心のよりどころを、どこに求めてよいかわからない人が本当に多いのです。

しかし、SNS上では別の世界が急速に広がっていました。小グループでの自発的なみ言葉の分かち合い。医療従事者とそのご家族への熱心な励ましの祈り。修道者と個人的なつながりや祈りを求め始める人々とのかかわりの発展。オンラインミサ。経済中心の人間社会に破壊され続けていた自然環境の急速な回復。

今、この状況の中で「自分の死」をそして「自分の命」を具体的に考えなかった人は、おそらく一人もいないことと思います。それと同時に回復されていく自らの人間性に気づいた方も少なくないのでは。この共通の恐怖は、宗教、人種、国籍、貧富の差を超えていました。

そんな中で、キリスト者としてどのようにこの状況を生きるのか、暗中模索しながらも、私たちイタリア管区が進めている活動内容をご紹介します。

もともと貧しい人の奉仕を目的に存在するミラノ、マッザーラ、シラクーザの各市共同体は、無料食堂は停止したものの昼食夕食の配布、すでに共同体内で受け入れた家族への世話をする活動などの継続。

タオルミーナ市の共同体も、手術をする子供の家族の長期受け入れを継続する以外に、今は使用しなくなった校舎を独居者や病人の高齢者に開放するよう市から依頼され、承諾。

また、ある枢機卿様が関わっておられる貧しい人々に配布するため、バチカンの共同体は、米、肉、野菜を毎日100人分用意することを急遽行っています。町にほとんど人影のない状況の中、 貧しい人が物乞いできない状態が続いているためです。

巡礼者用の宿屋をしているフィレンツェとアッシジの共同体は当然、一般の方々の受け入れ活動は停止中です。

フィレンツェの共同体は、セネガルからイタリアに帰国したイタリア人ボランティアの方々の当面の隔離場所としての部屋の提供をある社会団体から依頼され、承諾。

私のいるアッシジ共同体でも、隣町の司教様と地域保健所からの依頼で、離れの家を一軒丸ごと、コロナウィルスに罹患して隔離生活を必要とする他の女子修道会の修道女たちに提供することに承諾。管理は保健所が一括して引き受けてくださるそうです。 私、個人としては、これをきっかけに、一般の方、貧しい方のコロナウィルスによる隔離生活の受け入れに発展することを期待しています。

このような形でしか、キリスト者としての証しをする場所と方法がなくなった私たちですが、自分が今、何を手放し、何を優先させて生きていくのかということを、各自が自覚するよい機会ともなっています。各人に温度差があるのは当然ですので、そのための摩擦もたびたび起こり得るのですが、幸い今私がいる共同体は、見つめる方向がほぼ一致していて、大きな問題に発展していません。そのことを神様に感謝し、また頼もしく、嬉しく、感じています。

とはいえ、経済的打撃を各家庭が実感し始め、本当の意味でつらい状況になっていくのは、これからだと思っています。そして、ますます、私たちの「仕えるキリスト者」としての存在意義が問われる時代となることと思います。でも、キリスト者の特質のひとつと私が勝手にとらえている「すべての動植物が土の下で動き始めるような、春の初めの優しく温かく光いっぱいの希望」を胸に、主と共同体、そして主が私たちに託された人々とともに、力強く歩みを続けていけたらいいな、と思います。 (Sr.A.T)