マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

・・・の手習い

どういう風のふきまわしか、突然俳句に興味がわいてきた。

思い返せば父は「寒紅やみごもりやつれ見すまじく」の句で 高浜虚子の「ホトトギス」初入選を果たした。俳句は父の人生の道連れだった。亡くなる前 古武士のごとく「辞世の句だ」と病室でつぶやいたのを耳にした私は、あわててそばにあった薬の袋に 震える手で書き留めたものだ。

母も短歌に親しみ、しばしば投句をしていた。姉もしかり。そんな家族だったのに歌を話題にすることはあまりなかったような気がする…私が関心がなかったために覚えていないのだろうか?父と母は話していたのだろうか?…やっと私もその世界の入口に立ってみて、思いめぐらす昨今である。

昨年の暮れから新年にかけて図書館から何冊もの句集を借りてきて、ゆっくりと読んだ。長らく敬遠していた「歳時記」を開いてみた。難しい漢字もたくさんあったが、まずはことばの豊かさに目を見はる。表現ひとつによって四季の顔がさまざまに変化するのが何ともいえない。情景が広がる。昔の習慣が懐かしくなる。学生時代 面倒におもえた「季語」だが、季節が進むにつれてふさわしい季語を選ぶのは楽しいし、作者の体験や生きてきた在り様から連想されることごとと相まって、季語は一層深まっていく。一つのことばによって、趣がこんなに変わってくるとは…
まさに宝庫だ。

しかし今私が一番惹かれているのは、わずか17文字が作りだす「余白」というか「余韻」である。全部言いきってしまわない、じっと対象をみつめながら、待つ・・・そこから湧いてくる言葉、連想が連想を呼んで膨らんでいく「空間」…

俳句は、無駄なものや余計な語句はすべて削ぎ落とす。それでいて散文になおせば原稿用紙数枚も必要となるほどの情景や想いが込められていて、ことば以上に雄弁に物語る世界が現れる。

こう書いてきて今改めて思うことは、これは私にとって全く新しい世界ではなかった。
どこか懐かしい感覚だ。

そうだ、俳句は「祈り」の世界に通じるのだ。

じっと留まる祈り・・・心を通わせる祈り、

沈黙の祈り・・・待つ祈り・・

心の深みに神を捜しに行く祈り・・・に似ている。

(Sr.Y・S)