今回は今年で96歳という高齢を迎えられ、感謝の日々を送っていらっしゃるシスター尾山にインタビューをいたします。シスター尾山がどの様にしてイエス様に出会われ、又どんな機会にマリアの宣教者フランシスコ修道会を知ることができたのかなどお伺いしたいと思います。シスター尾山、よろしくお願いいたします。
-シスター尾山のご出身地は?
山口県宇部市です。父は農家の長男でした。私は女6人、男1人の7人兄弟の5番目として生まれました。2番目の姉は3、4歳の頃肺炎で死にました。家の中には、仏壇と神棚があり、仏様と神様が祭られていましたが、仏教の雰囲気の中で育ちました。
-では、いつどんなきっかけで、シスターはキリスト教に出会われましたか?
私の父は、子どもたちをみんな師範学校に入れて、何か資格を持たせたいという望みがありました。他の兄弟たちはみな、父の望み通りにしたのですが、私は父のその様な考えが大嫌いでした。それで友達が日本赤十字社山口支部病院内の看護師養成所を受験すると言うので、私もそこを受験して看護師の養成所に入りました。
1年生の時は勉強の科目が多かったですが、2年生になると実習時間が多くなり、ただ赤十字の博愛の精神だけでやっていくことに、私は何となく物足りなさを感じていきました。何かもっとしっかりしたものを持ちたいと思っていた時、友達に誘われてある講演会に出かけました。そこはプロテスタントの教会でした。その後もう一つ別の所にも教会があると聞き、その友達と一緒に行ったところ、そこはカトリック教会でした。ちょうど夕方でしたので、神父様、カテキスタのご家族、そして近くの人達が聖堂に集まって夕の祈りをしていました。私はこっちがいいなあと思い、それからその教会に行くようになりました。これがキリスト教との最初の出会いです。
当時私は日赤の寄宿舎にいましたが、キリスト教のお話を聞きたい人のために、カテキスタが寄宿舎に来てくださいました。そして私は3年生の時、聖霊降臨の祭日に山口教会で洗礼を受けました。
-看護師の資格を取ってからどんなお仕事をされたのですか?
昭和12年、私が2年生の時、日支戦争が始まり、私は看護学校を卒業するとすぐ召集を受けて救護班として中国に派遣されました。
中国に行く前、教会の信者証明書を広島の司教座聖堂でロス司教様にお見せした時、堅信を受けていないことがわかり、その場で司教様から堅信の秘跡を受けました。そしてそれを持って行った先が私たちの会、マリアの宣教者フランシスコ修道会の病院でした。その病院は外国人のシスターが責任を取っていましたので、日本軍が自由に使うことができず、修道院の建物は私たちの寄宿舎になっていました。しかし、シスター方の荷物が置いてあったので、時々シスター方が出入りしていました。その時私は初めてFMMのシスターにお会いしました。私は中国のいたる所で奉仕をして、2年後に山口に戻りました。山口教会であの有名な(後にイエズス会の総長になる)アルペ神父様にお会いしました。21歳の頃でした。
-山口日赤病院で少しの間務めることになりましたが、それからが問題なんですよね。
私は、どのような生活をしていいか判らなくなってしまってね。両親からは、結婚のことなど、まだ話はなかったし、その頃手紙で交際をしていた人がいました。それで、私はアルペ神父様に心の悩みをお話ししたところ、神父様は「いや、あなたにはもっといい人がいますよ」とおっしゃるので、私は「いいえ、他にもっといい人がいると言っても、その人とは絶対結婚しません」と言いました。神父様は「その人と結婚できなかったら、どうしますか?独身でいますか?」と言われました。私は「もちろんですよ!」と答えました。
そのうちにアルペ神父様は、広島の長束に行かれることになりました。神父様は広島に発たれる前、私たち一人ひとりに会って下さいました。その時私は「神父様!私はどうしたら良いでしょうか?」と言ったら、神父様は「私が言っても、あなたの考えは変わらないだろう」と。私は「どうしたら良いのでしょう!神父様のおっしゃる通りにしますから」と答えました。そしたら神父様は「あなたは奉献生活をしたら、とってもいいですよ」とおっしゃるので、私はびっくりして「神父様!本当ですか?」と言うと、神父様は「召し出しがあります」と、おっしゃいました。私は奉献生活の召命など全くないと思い、結婚生活について深く考え、その準備をしていたことを話したら神父様は「結婚について深く考えられたのなら、それはかえって良かったです」と。
私に奉献生活への召命があると、はっきりおっしゃった神父様のことばを心から信じて、奉献生活の道に入る決心をしました。決心した後神父様は「聖母病院に行ったら、いいと思うんですがねぇ」と言われ、私は中国のシャンハイでFMMのシスターに出会っていたので、すぐに「はい!行きます」と答えました。とっても嬉しかったことを思い出します。反面手紙で交際していた人のことを思うと、気の毒でしたが…
-それで修道生活を始められたのですか?
山口から東京の聖母病院に志願者として移りましたが、再度召集され東京の陸軍第一病院の救護班として、2年間働きました。その間FMMの志願者として聖母病院を行き来しました。そんな生活に私は疲れてしまい、少し休みました。そして体も回復した頃、日赤の救護班の召集が解除されました。
「さぁ、勇気を出して行きなさい!」と、私は聖霊に促されたように心が燃え、今度は神様からの召集だと思いました。両親は、私が修道院に行くことは反対でしたが、私は両親に手紙を残し、ある夜裏口から家を飛び出しました。そして、終戦の前の年、1944年9月8日に入会しました。
戦争中でしたので、清瀬で2年間の修練生活を送りました。その間入会前に交際していた人から、再度手紙が来ましたが、初誓願の前に私は、私に来る手紙はそちらで片づけてほしいと修練長に願い、それからは手紙は来なくなりました。
-シスターになってからはどのような使徒職をなさったのですか?
初誓願後、私は東京修道院に派遣されました。当時厚生女子学院が設立され、私はそこで教務主任として2年間勤めました。その後その学院は聖母女子短期大学として昇格され、そこでも教鞭を執っていました。その頃、聖母病院の隣りに聖母老人ホームがあり、その施設長をシスターマダレン・ゲルレがされていましたが、私が施設長代理をするようになりました。当時横浜の戸塚にも聖母の園老人ホームを持っていました。そこでも、10年間働きました。
-シスターは韓国のミッションに長くいらっしゃいましたよね?
その頃韓国管区の病院で働く看護師の募集があり志願しました。その結果1970年9月シスター岸田と一緒に韓国に出発することになりました。まずプサンの修道院に行き、韓国語を習いました。50歳の時でした。
その翌年フランシスコ会がしているハンセン病者の施設があるサンチョンに行ったわけですが、又またフランシスコ会の要請で、チンジュウにある老人ホームの手伝いに行くことになりました。そこに30年間ほどいました。その後ソウルの近郊のカンミョンにある小さな老人ホームで、おばあちゃんたちのお世話をしました。その家はアパートの様な作りで、小さな部屋がいくつもあり、また急な階段もあり、それはそれは苦労しました。なぜならその頃私の膝が大分悪くなって、痛みもひどかったからです。すぐに治る病気でなかったので私は考えた末、思い切って日本に戻ることを決めました。
熊本修道院に帰って来て、膝の人工関節の手術を受けました。また韓国にいる間、3回もお腹の手術を受けているので、今は体も大分不自由になっています。でもアルペ神父様の「あなたは、奉献生活に召命があります」と言う言葉を忘れず、その言葉に支えられて、大きなお恵みの日々を送っています。
-奉献生活の大半を看護師として、病院・老人ホームなどでいつもみなを家族のように迎え、弱く小さな人々の傍らで奉仕をし続けてきたシスター尾山ですが、最後に私たちに、そして若い人に伝えたい言葉がありましたらお願いいたします。
「奉献生活を全うするために、いつでもイエス様にしがみついていなさい」と、言いたいです。イエス様から絶対離れたらだめですよ!いつもイエス様を、心の中心において生活して下さい。
-シスター尾山!インタビューのご協力に心から感謝いたします。