1925年 (大正14年) 11月7日にオブラ-トの修練院が札幌に開設されて以来オブラ-トの修練者たちは、フランシスコ会キノルド司教の大きな支持を受けながら宣教者としての堅固な養成を受け、オブラ-トの誓願を立てていました。その宣教活動は、札幌周辺の最も貧しい病人や路上生活者にまで及んでいました。事業の場でも、オブラ-ト以外に日本人の会員が一人もいない札幌の共同体にとってオブラ-トの存在は貴重でした。地域の教会と社会の必要に応えていくうちに病院事業から様々な事業が派生し発展していく中で、外国人の多い共同体の良き助け手となっていたのです。
病院内に設けられた子供の収容施設「天使園」
当時、産業の発達により国中に結核患者が激増していました。この伝染病にかかった病人はハンセン病患者のように恐れられ、家族から引き離され、誰からも世話されずに悲惨な生活を強いられていました。天使病院は、これに即応して1922年に診察室の改築と同時に放射線装置を設け、伝染病室の一部を結核病棟としました。
このような病院の一室に子どもを収容するようになったのは、出産後間もなく死亡した患者の遺児を引き取る人もなくて家族が途方に暮れているのを見兼ねて引き取ったことが直接のきっかけですが、1923年の関東大地震で孤児となった子どもたちの世話を道庁から要請されて以来、収容施設として発展していきました。この大震災は1923年 (大正12年) 9月1日、午前11時58分44秒に関東一帯を襲い、被災者340万4,898名、死者9万9,331名、不明者4万3,476名と報道されました。一面 火の海となった東京と横浜には教会や修道会が密集し、10名のパリ外国宣教会、8名のサン・モ-ル会、1名のシャルトルの聖パウロ会の宣教者と大勢の関係者がその犠牲となり、殆ど全ての建物が崩壊または焼失してしまいました。家族を亡くし、衣食住もない気の毒な人たちが傷だらけのまま路頭をさまよう有様でした。教皇ピオ11世は、アメリカの教会にその窮状を知らせて救援を求めるとともに、自らも日本政府と教会に義損金を送り、日本のFMMも非常に貧しい中から義損金と救援物資を送っています。このように、被災地には全国各地から義捐金と救援物資が送られてきました。特に、救援活動を依頼された北海道庁は、食糧、看護婦、医師、警官などを多数現地に送りましたが、何よりも保護を求めて北海道に渡ってきた避難民の世話に追われていたといいます。札幌修道院でも北海道へ避難して来た人たちを病院に、またフランシスコ会の依頼に応じて両親を失った5名の孤児を修道院に、それぞれ引き取りましたが、捨て子や孤児が増加するにつれて収容場所がなくなったため、医師のため用意してあった家に移動し、この子どもの家を「天使園」と名付けました。
1927年(昭和2年)、本会創立50周年記念として残る社会事業の一つに、本会がその開設当初からかかわり 長年診療奉仕に従事してきた北一条教会信徒の「同胞会」による無料診療所があります。札幌市社会事業史は、これを「札幌の社会事業の開拓として社会に認められた有意義な事業」と位置づけています。それによると、第一次世界大戦後から昭和初期にかけて深刻な不況と金融恐慌が起こり、全国的に娘の身売りや捨て子が続出し、栄養失調と貧困で皮膚病と結核などの伝染病が流行していました。北海道ではそれに加えて大凶作が開拓民に大きな打撃を与えていたのです。札幌では「サムライ部落」が当時の悲惨さを象徴しています。新天地を求めて移住して来たサムライの家族でさえ、生きるすべも身を寄せる場所もなく豊平の川岸で路上生活をすることを強いられていたのです。このような時代の必要に目覚め、いち早く救助活動に乗り出したのが北一条教会の信徒たちでした。信徒たちが、第一次世界大戦後に信徒間の親睦と霊的向上を目的に作った「同胞会」は、社会事業に関心の深いフランシスコ会司祭ヒラリオ・シュメルツ師を主任に迎えたとき、この会を社会事業団体に組織変更し、会員と篤志家の寄付だけで貧しい人々のために「無料診療所」を開くことを考えました。後に札幌社会福祉事業の草分けとして注目されたこの無料診療所開設について1927年(昭和2年)の札幌修道院日誌にこう記録されています。
1月10日:午前 ヒラリオ師、北1条の診療所開設についてM.アポリナリア院長に相談のため来院。天使病院の佐々木先生とも会い、少なくとも週3回の診察をお願い出来るかどうか尋ねる。家はすっかり準備が整えられている。午後 院長がその家を見に行く。それは北1条教会敷地内に建てられた小さな家だが、診療所にあつらえむきの建物であった。
1月11日 : 佐々木先生と佐藤先生、間もなく開かれる診療所の診察日を調整。
1月24日:院長、2月2日に小さな診療所が開かれることを共同体に発表。
1月26日:ヒラリオ師来院、30日に開かれる診療所開設の打合せ会の参加を佐々木先生に求めるが、代わりに佐藤先生を送るとの返答を受ける。聖母の祝日にあたる2月2日に開設出来るよう、小さくとも一つの病院として立派に機能する診療所を目下準備中。
1月31日:昨日開かれた打合せ会の報告を佐藤先生より受ける。
2月 2日:聖母お清めの祝日、北1条無料診療所の開院式を行う。すべての人の贖いのためにイエスが神殿に捧げられたこの日が、開設日に選ばれる。佐藤先生は参加して大満足。開設にまで漕ぎ着けたのは先生のおかげ。
こうして開設以来14年間、札幌の姉妹たちは 毎週3回、雨の日も吹雪の日も 北1条教会の敷地内にある無料診療所に通い、患者の看護と施薬はもとより、貧しい人のよき相談相手として地域社会に浸透していったのです。共同体の貧しい地域との関わりもこの頃から始まりました。札幌の社会事業の草分けとして注目されていた「北一条公教同胞会」の診療所は、早くも開設1年後には皇室の御下賜金をはじめ、道庁の助成金、財閥の寄付金などの援助を受け、協力の輪が他の教会にまで広がりましたが、姉妹たちの活動は地味なものでした。この診療所も第二次世界大戦時の医師不足のあおりを受け1941年(昭和16年)に天使病院東側の一軒家へ移転、その2年後に 天使病院に吸収され発展的に消えていきました。
5名の患者から始まった診療所が、わずか一か月後には一日40名の患者と30名の施薬、そして1939年(昭和14年)の札幌社会事業協会の報告によると、年間の実患者数526名、延べ3,392名、ベッド設備の必要も指摘されていました。社会で高く評価されているのは時代の要請に応じて開かれた無料診療所であり、長年教会の信徒と天使病院とが協力して奉仕してきたことにあるようですが、実際、それを支えてきたフランシスコ会の存在も忘れることはできません。