マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

読む秋、書く秋

Sr岡野2向こうが透けて見えそうなウロコ雲が空の一角を占めるのを見ると、「天高くして馬肥ゆる秋」という言葉が思い出される。

あらためて考えてみると、「天高く」とはわかるような気がするのだが、「馬肥ゆる」のイメージがわかない。さて本来の意味は何だったのだろうか? そう思い、早速調べてみると、故事ことわざ辞典の中に、「秋は空気も澄んでいて、空も高く感じられ、馬も肥えるような収穫の季節でもある。杜審言(としんげん:唐代の詩人)の詩に『雲浄くして妖星落ち、秋高くして塞馬(さいば)肥ゆ』とあるのに基づく」とあった。

漢詩に親しんだことがないが、何歳になっても知ることは楽しい、と思った。

「読書の秋」という言葉も同様に調べてみると、「唐の韓愈(かんゆ)が残した詩に、『燈火(とうか)親しむべし』という一節があり、『秋になると涼しさが気持ち良く感じられ、あかり(燈火)になじむようになる』これが秋は読書に適した季節の由来だ」というのだ。

日が落ちると家の外が静かになり、家の中もほとんどの部屋が暗く沈む中、大切な油を灯し、ようやく手に入れた書物を食い入るように読む姿を想像してみる。書を読むことが今以上に得難く、また希少なことだったに違いない。

現代、本屋にも図書館にも読みつくせないほどの書籍が並んでいる。それでは「読む」だけではなく、「書く秋」としたらどうだろう? 手紙、エッセイ、覚え書き、俳句、物語、なんでもよい。書きはじめる前には気がつかなかったものが、書いているうちに行間から、内奥から滲み出てくることがあるような気がする。

Sr岡野1数か月前、私は小学生時代に溺れかかったことを書いた。始めにあったのは、海中で、もがいていた私を救い上げた腕の記憶だけだった。しかし書き終わった時には、あの時救われた体験が今の自分をも生かしている、と雷が落ちるように気がつかされていた。

書くという作業の中で、体験が奥歯の間で何度も噛みしめられ、自分も知らなかった新たな意味が染み出てくる。読むに勝る楽しみではないだろうか?     (Sr. M.O)