第二次世界大戦下の大試練の中で前進する本会
戦争の最中に起きた会長 マリ・ド・ラ・レダンプシオンの帰天によって会の運営が大きく揺り動かされましたが、この大試練をどのように乗り越えていったのでしょうか。
戦争中とはいえ、会長が帰天した場合、会長代行者は新会長を選出するために、6か月以内に総会を招集しなければならないと会憲は定めていますが、当時の代行者は、会憲の規定通り6か月以内に総会を招集することは不可能としても、翌年の1月16日には総会を開催すると全管区に発表しました。ところが戦争は一向に収まらず、管区長の集合は一層困難になったので、代行者は布教聖省の指示通り総会の遅延を決定しました。しかし、なおも 戦争終結の見通しが立たず、布教聖省は本会宛の回状で各管区の有権者に会長候補3名、本部評議員候補6名を推薦してその名前を送るように指示しました。この結果を見てから布教聖省が任命するというのです。これは本会に新しい変化を与え、会員の予想もしなかった方向へ会を導いていきました。布教聖省は、有権者に会憲82条の「要職につく修道女は宣教地の体験をもつ者でなければならない」という規定を守るように求めた結果、会員の大半が会長に最適任者と考えていた修道女ではなく 中国の宣教地で22年の豊富な宣教体験をもつMマドレヌ・ド・パジを任命したからです。当時 Mマドレヌ・ド・パジは、中国の管区長として1911年の総評議会に出席した後、戦争のために中国に戻ることができず、それ以来、「あれほど愛していた」中国を再び見ることなくリオンに滞在していました。
思いがけなくも ロ-マ滞在中に第3代会長に任命されたMマドレヌ・ド・パジは1918年(大正7年)4月16日に会長職を開始しました。1911 (明治44年) まで日本の初代管区長として親交の深かったMマドレヌ・ド・パジの会長就任は日本の共同体にとって大きな喜びでした。それは、管区長Mステファナの管区宛の手紙の方が ロ-マ本部の新会長就任の電報よりも早く届いていたことからも容易に察せられます。その後、Mステファナは、Mマドレヌ・ド・パジが会長に任命されて空席となった中国の管区長になり、日本の管区長にはベルギ-人のMステファニ・ド・ジェズ・クルシフィエ(Marie Stephanie de Jesus Crucifie)が新たに任命されました。日本にとって3代目の管区長です。
第一次世界大戦の嵐は、1918年 (大正7年) 11月まで 続きました。欧州の会員は、陸軍病院、野戦病院、難民キャンプなどで 戦災者を戦火と飢えと伝染病から命がけで守り、 多くの会員がその犠牲になりました。Mマドレヌ・ド・パジも砲撃にあいながらパリからシャトレの共同体を巡回して歩き、その途上で病気に倒れてしまったのです。会長職僅か10か月後の12月7日、既に冒されていた腎臓病が再起不能と思われる程 悪化し、医師より休養を命じられたために、会長職の辞任を申し出ましたが、布教聖省は、これを受け入れる代わりに本部評議員のマリ・ド・サン・コロンバンを会長代行に任命し、会長には「健康が許す限り」本会を治めるように指示しました。短期間とはいえ、会長は宣教地への派遣を再開させています。生前マリ・ド・ラ・パシオンが決定していた聖地エルサレムの創立も見事に実現させました。1919年 (大正8年) 以降は 副会長と二人三脚で 世界大戦後の修道院復興と会員の健康回復と世界宣教の使命遂行に取り組んでいました。
第3代管区長 マリ・ステファニ・ド・ジェズ・クルシフィエ(1918-1926)
「無原罪の聖母」管区:1918-1920 日本、北イタリア、スイス
1920-1926 中国(上海)、イタリア(ミラノ、サン・レモ)日本、フィリピン
日本の第3代管区長になったMステファニは、1908年 (明治41年) に 会長のMレダンプシオンがモンゴルへ向かう旅の便宜を図るためロシアに修道院を創設した時のメンバ-の一人として選ばれ、ロシアへ派遣されています。そして、8つの修道院をもつロシアの会長代理として出席した1911年の総会では、ロシアがオ-ストリア・満州・モンゴル・ポ-ランドとともに 新しい「お告げの管区」に編入されたため、ロシアの副管区長に任命されました。しかし、第一次世界大戦の勃発と同時に、ロシアにある本会の修道院が閉鎖され、さらに、ロシア革命による司祭・修道者のシベリア追放など、幾多の試練を経て後、1917年(大正6年)12月6日、布教聖省から委託されていたフランシスコ会総長によって「無原罪の聖母」管区の管区長に任命されました。
Mステファニの共同体訪問
Mステファニが「無原罪の聖母」管区の管区長に任命されたのが第一次世界大戦中であったために、新管区長の共同体訪問は 終戦を待たなければなりませんでした。その世界大戦は1918年11月に連合軍の勝利で終りましたが、これにより世界の五大強国の仲間入りした日本は西欧化と現代化を目指して一途邁進し、経済が急成長しました。これが大正デモクラシ-の始まりでした。日本の教会も、政府の締め付けから開放され、戦場から日本へ戻ってきた宣教師と新しく派遣されてきた宣教師の活動も徐々に開始されました。その群れの中に、殉教者聖ゲオルギオのフランシスコ修道女会のシスタ-たちもいました。一行は1914年に母国を出てから世界大戦の波に巻き込まれ、右往左往しながら苦労の挙句ようやく1920年8月に、3名のドイツ人シスタ-が札幌に到着し、この宣教地でFMMに迎えられ、札幌修道院で暖かいもてなしを受けました。キノルド司教は、既に北海道の福祉事業をFMMに委ねていましたが、今度は女子教育を教育修道会であるこのフランシスコ修道女会に一任するために札幌へ招いたのです。
1920年 (大正9年) はこの管区長の共同体訪問で幕が開きました。1月25日、中国の訪問を終えてMステファニ は2人の新院長と2人の宣教女を伴って神戸港に到着しました。およそ7か月間の日本滞在で4つの共同体を巡回し、熊本のMヴィルジネラ、人吉のMディヴァン・パスツ-ル、久留米のMメルセデス、札幌のMデニスの4名の新しい院長を熊本に集め、院長会議を開きました。ところが この訪問中に総会召集の知らせが入り、管区長は急遽 予定を変更して8月22日に長崎港より上海へ向かいました。
本会来日から1920年 (大正9年) までに日本の宣教地で働いた会員は43名、その内34名が長崎教区で、9名が札幌知牧区で、宣教に従事していました。日本人会員については、1911年 (明治44年) に日本人として初めて正会員の着衣を受けたM長曽我部トメとM畑原サノは1914年 (大正3年) に有期誓願を宣立していますが、その後 M畑原は1916年 (大正5年) に帰天しています。
1911年 (明治44年) の修練院開設以来1920年 (大正9年) までの9年間に日本人誓願者は僅かにこの2名だけですが、1919年 (大正8年) になってようやく後続の3名が修練院に入会しています。従って1920年 (大正9年) の統計が示す日本人会員の人数は1名の誓願者と3名の修練者のみで、それに12名のアグレジェ(準会員)が田畑や事業などで働いていました。このように召命が少ないのは第一次世界大戦の影響によるもので、ロ-マとのコミュニケ-ションが断たれたために入会、着衣、誓願宣立などの会長許可が直ちに得られず、待ちきれずに家に帰った若い女性たちがいたと思われます。これは世界宣教の会として世界戦争から受けた最大の損失でした。第一次世界大戦後 初めて開催される1920年総会が「神のわざ」である本会を新しい時代に向かって新しい方向へ導こうとしていました。