マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

シスター中村寛子の巻

1Sr中村― シスターはどこでお生まれですか。

私は中国山東省の済南市で7人兄弟(3男4女)の末っ子として誕生しました。私たちは済南事変のあと日本に一時ひきあげましたが、最終的には1946年4月に日本に帰ってきました。私が小学2年の時でした。

― どのようにしてカトリックを知るようになられたのですか。 

最初にカトリックに興味をもったのは私ではなく兄のほうでした。一緒に教会にいってみないかと大好きな兄に誘われたので、好奇心もあって「お兄さんがいいと思うところならきっと良いところだと」と思って一緒に教会に足を踏み入れ、一緒にカトリック要理の勉強をしました。 勉強が終わって神父様から「洗礼をうけますか」と聞かれて兄は決心がつかなかったのですが、私は17歳のクリスマスに受洗しました。兄はその翌年の復活祭に受洗しました。その後「どうして洗礼をうけたの?」と聞かれるたびに「ただ兄についていっただけ」と答えていましたが、振り返ってみると「絶対者・神への憧れがあったこと、神さまに惹かれていた」ことに気づくようになりました。しかし教会生活は規則が多くてだんだん窮屈に感じるようになり、よい人間にならないといけないのにできないし、日曜日のミサにも行けないこともあって2年間ぐらい教会から遠のいていました。でもある日のこと、久しぶりに教会に入り後ろの座席に座っていた時、「待っていたんだよ」と言われたように心の中に感じて涙が止まらなくなってしまいました。それは私の回心の時でした。

 ― FMMとの出会いについて話してください。 

私は修道生活について考えたことはありませんでした。私は普通の女の子だし、修道者に対して偏見もありました。良い伴侶や子供たちに恵まれ、キリスト者として立派な生活をおくれるようにと祈っていました。そして良い方と出会い、みんなからも祝福されて私たちは結婚すると思われていました。当時、山口の宇部では大人の受洗者はほとんどいなかったために司祭は信者のこどもに洗礼を授けたいと願っていましたので、若い女性たちの結婚に望みをかけていたようです。私たちは正式に婚約をしていたわけではありませんでした。その頃今まで感じたことのないような、内面的な悩みがわきあがってきました。それは「私は結婚できない」と心の中で感じるようになったのです。ひとりになるとこの声が起こってきていろいろ考えあぐね、疲れ果てて信者の友人に相談しました。彼女は「選定の黙想会」(今は識別の黙想という)に行ってみたらと勧めてくれました。私は行ってみたらきっと何かわかるに違いないという確信があったので参加することにしました。1週間の黙想でしたが終わる2日ほど前、指導者がこんなことを言われました。「今日神さまは召命を受けている人に知らせてくださる」と。午後聖体拝礼があってその時私は「呼ばれている!」と感じました。喜びがあったわけではありませんが「イエズス・マリア・ヨゼフに従います」との言葉が出てきました。後から気づいたことですが FMMの誓願の指輪には「イエズス・マリア・ヨゼフ・アンチェラ」と彫られているので「あなたの行くところはFMMだよ」と教えてくださったのではないかと感じました。まさに青天の霹靂。この黙想会に行く前に兄に、そして結婚しようとしていた彼にも私の迷いについて話しました。何といえばよいのかわからず心が痛く心身ともに苦しかったのですが、聖霊が何を言うべきかを教えてくださったと思います。黙想会の後どういう結果になろうともそれに忠実に従うとの気持ちだったし、二股をかけることはしたくなかったので、彼には結婚できないことを伝えました。黙想会からかえってきて司祭に話をしたけれど反対されました。でもそのとき助けてくれたI師と兄は私の支えでした。そのとき、すぐ上の姉がFMM(マリアの宣教者フランシスコ修道会)に入っていましたが模範生の姉とは同じ会に入りたくないと思っていました。でも少し遠い福岡の海星女子学院のFMMを見に行きました。院長さまがいろいろ案内してくださり調理室を見せてくださったとき「ここが私の入る修道会だ」と感じました。私は家族からも思い込みがはげしいといわれていたのでこれは間違いではないか、思い込みではないのか、自分では納得していても人には説明できない・・・それでFMMの会の聖人たちの本を読んで創立者のマリ・ド・ラ・パシオンに祈りました。「あなたの心には未来の娘たちの場もあるのですから将来あなたの娘になるようお望みならどうぞ私を助けてください」と祈りながら毎朝教会に行きました。するとある日、教会の受付に「中村寛子さま」という手紙が目にはいりました。それはI師からのものでサマリアの女の箇所「水を飲ませてくださいと頼んでいるのが誰かを知っているなら・・・」というヨハネ4章のみことばが書いてあるのを見て「やはりイエス様からのよびかけだ」と感じてとても大きな喜びがわいてきました。神が野の草のような私にかがみこんで目をとめてくださったことに酔ったような喜びに浸されました。それから管区長さまとの面接があり、なんと言っていいのかわからない私は開口一番「確信があるんです」といいましたら「確信があるのならいらっしゃい」とおっしゃり この会はすごいなと思いました。こうして2月2日の主の奉献の祝日にアスピラント(見習い)としての生活を東京・聖母病院で始めることになりました。その後戸塚原宿の志願院に入りました。しかし修練期に入る前「私は修練者にはなれない・・私はふさわしくない・・・」との思いにとらわれ一人で悩んでいました。そしてマリア様に祈りました。「あなたは何のために修道院に入りたいと思ったのですか」と問われていることに気づいて、初心「み旨に従う」ために来たのだということを思い出させてくださいました。この思いを強めた時、不安の幕が取り払われ、やはり招かれているのだと確信することができました。これは誘惑だったと後で修練長から言われました。

― FMMでの宣教生活について話してください。 2Sr中村

私は海外宣教には行かないと思っていました。日本は信者も少ないのにわざわざ外国にい くことはないのではと思っていました。しかし学校や病院などで働くうちに急に「海外宣教へ行かないといけない」との思いがわいてきました。当時病院のシステム化で、多忙の中にいたのでそれから逃げようとしているのではないかと思い、丁度識別のセッションが共同体のなかで行われたのでその識別を経て「海外宣教」が神のみ旨ではないかと思うようになりました。そのとき仕事のために必要な勉強をするようにと提案されました。その勉強にも心惹かれるものがあったので、これは逃避ではないとわかって海外宣教への望みを管区長に話しました。そしてアンゴラへの派遣が決まりその準備に入りました。アンゴラで8年間、ザイールで27年間の宣教生活でしたがそのなかでもアンゴラでの人質事件のことをお話ししたいと思います。当時アンゴラでは政府軍と反乱軍との間で激しい内戦状態でした。反乱軍は力を増してきてあちこちを占領していき支配を強めていました。私たち5人のFMMと3人の神言会士は共同で北部のカコーロというところで宣教活動をしていました。1983年12月8日早朝カコーロは反乱軍の手に落ち 私たち8人は人質として捕まえられました。

4Sr中村― この事件を通して一番伝えたいことは何でしょうか 

その事件以前から、アンゴラの国情がとてもきびしくなっていたので管区規約として一条文を改正することになりました。それはアンゴラの状態をFMMとして引き受けながら(accepter)働くだけではなくもっと責任をもってassumer 自分のこととして受け止める、つまり運命を共にするという一文に変更することでした。自分の身に何が起こるかもしれない…怖いと感じました。そしておきた人質事件。捕まって奥深いジャングルの中を歩いていく時、これは偶然に起きたことではなく神様のご計画の中でのことだと感じ、初めてassumer の意味が分かったように思いました。ジャングルの天をつくような高い木々、四方を兵隊たちに囲まれて歩く・・歩く・・歩く・・アンゴラや日本のシスターたちや家族から引き離され、未知の世界に入っていくとき、みんながどれ程心配して苦しんでいるだろうかと思うと私もつらいし不安になる。殺されるかもしれない、何が起こるかわからない、でもこのときのために神は準備してくださった、神が共にいてくださるとの思いで少しずつ怖さは消えて行きました。神さまにすべてお任せすればいいのだとの確信。これはとても大きな恵みでした。143日間(4か月半)の捕虜生活が終わり解放の前日、反乱軍の中で司牧活動をしているアンゴラ人の神父様方と一緒にご復活のミサがささげられました。その時アンゴラ人司祭は私たちに「神父様、ブラザー、シスター方、アンゴラを離れるのを悲しんではいけません。あなた方はこの143日の人質生活を通してあなた方にとって一番良い宣教をしました。アンゴラの苦しみを知り、共有し、共に生きました。私たちの苦しみを知っている人々が世界にいるということで私たちは勇気づけられ 力になります。アンゴラの苦しみを世界に知らせてください」と言われました。私の心にこの言葉は刻み付けられ 宣教が何かがわかりました。

― 日本に帰られたのはいつですか。 

35年間(言葉の勉強期間を含めて)の海外宣教生活のあと2012年に帰国しました。2011年3月11日の東日本大震災のことはテレビで見ました。地震、津波、原発・・・・海外生活が長かった私がはじめて「日本」を意識したときでした。私は中国で生まれ今まで旅人、巡礼者のようでした。9歳の時ひきあげてきて佐世保の港で見た中国のそそり立った険しい山々とは違うおだやかなやわらかな稜線の続く日本の山々や美しい風景に「これが私の国」と思っ3Sr中村たあの時にもどっていきました。その日本が、津波であんなひどい大変なことになっているとは・・・・日本への愛情がわいてくるのを感じました。そして再び「愛する日本」へと派遣されて 再適応の歩みを続けています。

 今日はどうもありがとうございました。これからの日本でのご活躍に期待しています。