第一次世界大戦の勃発
1914年 (大正3年) 7月28日に バルカン半島からあがった火花は、オ-ストリアと同盟を結んだドイツのベルギ-侵略に始まるフランスとロシアへの侵攻によって、欧州強国を戦乱の渦に巻き込み、ついに8月4日、ドイツ軍と連合軍とが激しく衝突して世界大戦にまで発展しました。4年間続いたこの欧州戦争で、本会も、世界宣教に奉献された修道会として、ロ-マ本部と世界中に広がる修道院とのコミュニケ-ションが絶たれ、多大な影響を受けていました。
第一次世界大戦勃発まで 本会の営みはすべて順調に行なわれていました。開戦の僅か2か月前に 会長のMレダンプシオンは世界各地から寄せられてくる会員派遣の要請に応えて130名の会員を派遣したところでした。ところが、突然 降って湧いたような戦争、本会にとって大きな存在であったピオ10世の帰天、そして、新教皇ベネディクト15世の即位など 目まぐるしい動きの中で本会は新しい局面を迎え、世界大戦という最大の試練と戦わなければなりませんでした。戦場となった欧州の修道院は野戦病院や避難所と化し、会員は 難民・孤児の世話と戦傷者・チフス患者の看護に奔走する毎日を送っていました。なかには 前線 もしくは 陸軍病院へ送られる会員もいました。このような緊迫した状況の中で日本訪問を終えてイタリアへ戻ったばかりのステファナ管区長も、会長とその労苦を共にしていました。この大戦の波は管区長不在の日本にも押し寄せてきました。
日本が連合国の要請で対独戦線を布告したのは1914年(大正3年)8月23日のことでした。時の政府はこの戦いを日露戦争後長い間悩まされてきた不景気を吹き飛ばす『天の助け』とばかり喜び勇んで参戦したと言われています。しかし実際には、「日本は連合国のSOSを無視して欧州の戦場にはおもむかず、列強諸国が手の届かなくなったアジア大陸を目指してドイツ領土を占領し、満州や中国全土にまで勢力を広げて空前の利益を得、戦時成金を輩出させ、時ならず好況時代を現出させていった」と記録されているように、遠いヨ-ロッパで起きているこの戦争は日本の国にとって直接 痛くも痒くもなかったようです。
しかし、この戦争が、「全世界に行って福音を宣べ伝えよ」との使命を受けて世界の各地で活動しているカトリック教会に与えた影響は甚大なものでした。
函館司教区から分離独立して
北海道の宣教地に新設された札幌知牧区
この欧州戦争は、ヨ-ロッパ出身の司祭や修道者のいる日本の教会にとっても大きな痛手となりました。キノルド師の報告によれば、当時の教会が直面していた状況の一つは多くの若いフランス人の司祭や修道士がフランス本国からの応召命令で日本を離れなければならなかったことです。その大半がパリ外国宣教会とマリア会の司祭・修道士で、その中には、キノルド師とともにフランシスコ会の再宣教を果たしたモ-リス・ベルタン師もいました。因みにこの戦争で世界中からフランス本国へ応召された司祭数は6万3千余にものぼると記されています。宣教師の離日は広大な函館司教区にも大きな打撃を与えましたが、北海道の宣教地を函館司教区から分離独立させる一つの転機ともなりました。以前から北海道の司牧をフランシスコ会に委ねようと考えていたベルリオ-ズ司教の計画が実施される機会となったからです。司教は、道内に残されていた数少ないパリ外国宣教会の司祭を函館地区に集めて、函館とその周辺の司牧に従事させ、この地域を除く北海道全域、南サハリン、千島列島の司牧をフランシスコ会に譲り、函館司教区から分離独立させました。こうして1915年 (大正4年)、4月13日、布教聖省の認可のもとに「札幌知牧区」が新設され、ヴエンセスラウス・キノルド師が知牧に任命されました。
1907年 (明治40年) に札幌の地でフランシスコ会の再宣教を果たして以来、兄弟たちの共同体は、当時の総長の意思で、他のどの管区にも属さない理想的な「諸国民から成る共同体」を維持してきましたが、この大戦で海外とのコミュニケ-ションが絶たれて寄付がこなくなったため、財政的に非常に困難な状態に陥り、他の管区に依存せずに存続することが不可能なまでになりました。そこで、キノルド司教は、総長の了解のもとに、この「諸国民から成る共同体」を自分の出身管区であるドイツのフルダ管区に編入させました。
ところが、日本の対戦国ドイツのフルダ管区に属するフランシスコ会士たちに戦争の波が襲ってきました。それは、ドイツ国籍の司祭・修道者に対する日本政府の厳しい監視と 外国からの寄付や手紙の断絶でした。最初はゆるやかだったドイツ人の外出も次第に厳しく制限されるようになりました。そこで信者や求道者の家庭を訪問することが出来なくなったフランシスコ会士たちは別の宣教手段を考え出しました。それが1916年 (大正3年) にキノルド司教によって創設された「光明社」の出版活動です。この年のクリスマスに創刊された週刊公教新聞「光明」は戦争の落とし子だったのです。これがきっかけでフランシスコ会の出版事業が始められ、10年後には本会もこの事業に協力することになります。
しかし、政府の監視は単にドイツ人に対してだけでなく キリスト者全般にも広がっていきました。その時の様子を キノルド司教は 新聞光明の記事の中で次のように報告しています。
政府は、日清・日露戦争の時と同様日本軍の「凱旋」を「天皇の神」のおかげと国家神道の神社参拝を全国民に強制した。それを拒んだために信徒の中には、解雇や退学の処分を受けるものが出てきた。司教たちは教会の態度を明確にするため再々政府に問いただしたが、その都度 政府は「神社参拝は決して宗教行為ではなく単に 祖先や国の偉人に敬意を表す行為にすぎない。祖先や偉人に対して敬意を表すのは習慣であって宗教ではない」と言うだけで問題を回避するばかりであった。当時、信徒数の少ない日本のカトリック教会は国から認められていなかったので、日本の司教団は教皇ベネディクト15世に政府と折衝のため特使の派遣を要請、この求めに応じて1916年(大正5年)、教皇は大正天皇の即位祝賀のために来日したことのあるマニラの教皇使節ヨセフ・ペトレリ司教を送りましたが、政府の答えは同じで「信教の自由が認められている故、何人もその意志に反して自分の宗教に背く行動を強制されることはない」と言い、教皇使節には最大の好意を示して当局に訓示を与えるとまで約束したものの 事態は改善されるどころか、時が経つにつれて悪くなるばかりであった。
このように、週刊公教新聞「光明」は、司祭のいない「異教徒の地」北海道に散在する信者に歩むべき道を照らし、信仰へと導いていたのでした。