-Sr.チュクの故郷はそのようなところですか?
ベトナムの南の地方、DALAT(ダラット)というところです。周りの木々は主に松ですが、ちょうど箱根へ登って行くような感じで山の上の観光地です。日本でも『花の都ダラット』と紹介されたことがある美しいところです。今、兄が継いでいますが、家は野菜や花を出荷する農家です。
-兄弟姉妹は何人ですか?
11人兄弟の10番目。5歳下に弟がいます。生まれた時は戦争(ベトナム戦争)の真っ最中、いつ死ぬか分からない時代でしたから、「少しでも早く神様の子供に」と、普通1ヶ月ほど経ってから受ける洗礼を生後6日目に授けられました。
-子供のころの思い出は?
かなりの年齢まで、「飛行機は大きな音をたてながら爆弾を運ぶもの」と思っていました。5歳ころの記憶ですが、「飛行機の音」や「イヌが吠えたら」昼でも夜でも部屋の奥の隠し部屋に、母か祖母が子供たちを隠しました。(大きい兄弟たちは足が速いので庭の方の隠れ場所に逃げました。)そこは真っ暗で、泣いたり、声を出したりしてはいけないし、じっとしていなければい、けませんでした。
それなのに不思議ですが、大人がいないと、子供たちは遊びを作って遊んだ記憶もあります。「かくれんぼ」。真っ暗な中、みんなで隠れては、頭とか顔とか服とか触って誰だかを当てる遊びもしました。こどもたちは遊び上手でたくさんのあそびをしました。戦争の終わりの頃は、子供たちや老人たちみんなで避難しました。大勢なので迷子にならないよう祖母が手をしっかり握って逃げ、真っ暗な中に長時間、皆じっとしていました。怖くて怖くて、おなかがすいたことも感じませんでした。
戦争が終わって、共産党が入ってきました。父は南の政府側の警察官だったから、刑務所に入れられました。遠くの刑務所、とても不便なところでした。トラックとか何とか便があるときや知り合いが行くとき一緒に行きます。訪ねて行ってもその日会えるかどうか分からないこともしばしばでした。一番上の姉のいる修道院に泊めてもらいながら、父に会いに行きました。疲れて眠くて・・・・空腹も感じませんでした。面会の時、父は病気でおじいさんみたいになっている様子を見て悲しかったです。何年後かに父は薬草を煎じることが上手でしたから元気になって帰りました。兄の一人は、父の広い敷地の森の中で、他の1人と地雷によってバラバラになって亡くなりました。兄は独身でしたが、その方は2人の子供と奥さんを残して亡くなりました・・・
-どのような子供でしたか?
5歳頃から小・中・高校生の間、教会の傍に2人のシスター(ベトナムの修道会)が住んでいて、よく遊びに行っていました。どちらか一人が留守になるとき、泊まりに行きました。
-幼い頃のサムエルのようですね。
私は遊びが大好きです。山登りや木登りも好きでした。今でも上手ですよ。男の友達も女の友達もたくさんいて、よく遊びましたから、18歳のとき、祖母は冗談に「結婚するときは1人だけよ」と言いました。たくさん友達がいて楽しかったけれど、でも心の中では「どこか足りない」と感じていました。9歳上のFMMの姉の霊名のお祝い日に、歩いて30分ほどの修道院へ、庭のバラの花を届けに行きました。丁度姉はお聖堂で拝礼中でした。私もお聖堂の後ろのほうで祈りました。とても心が魅かれてゆきましたが「私にはムリ、むり、無理」と打消しましたが「でもいいなあー」と心が揺れました。それからもよく修道院へ行って遊んだりお祈りしたしていました。もちろん友達ともよく遊んでいましたから、姉の修道院の責任者が「チュクは友達がいっぱいだから修道生活は無理かしらね?」と声をかけたときも私の返事は「分からない」とそっけないくらいでした。お祈りすることは好きでしたがまだ召命を感じるほどではなく、神様はかくれんぼしているような感じでした。
私が17歳のとき母は57歳で亡くなりました。あるとき、姉の修道院の責任者のシスターが「修道院のシスターたちが大勢不在になるけど泊まりに来ない?」と声をかけました。私は小さい頃から近くの教会の2人のシスターのところへ泊まりに行っていた記憶がよみがえり「行きます」と応えました。私は深く考えていませんでしたが、父はその時「チュクは修道会へ入会する」と直感したそうです。甘やかされて子供っぽかった私は、修道院で、幼稚園のお手伝いをしたりしながらいつまでも楽しくのびのび過ごしていました。でも修道会に惹かれるので「修道会へ入会するため願いの手紙」を書きましたが、後から来た方たちが先に修道院に入って、私は3年間、許可が出ませんでした。でもそれはとても大切な準備の時期だったと思います。
-その3年間はどのように過ごされたのですか?
例えば、会の伝統で毎日の典礼にあわせて創立者の霊的書き物が朗読されます。このような朗読(レクチュール)もありました。『宣教者はヨセフ様のように、杖をそばに置き・・・夜中でも呼ばれたらすぐに幼いイエス様とマリア様を連れて出かける。』また、『宣教師をイヌとネコにたとえて。主人に忠実なイヌに倣い、家に居つくようなネコは宣教者にふさわしくない。』 覚えてしまうほど、3年間毎日聴いていたので、宣教者となった今でも愉快な表現も含めて、心の糧となって私を支えています。神様が道を引き、私に種をまきましたから待たされた3年間にも意味深い訳があったのです。
-いつ修練期を始めたのですか?
23歳で漸く修練に入りましたが、同期の14人の中でもベンジャミン(最年少)でした。いつも一番下でしたから、特に愛され甘やかされていると感じます。ベトナムにいる間、父は私が派遣される修道院がどんなに遠くてもバイクで訪ねてきてくれました。今は高齢になって、日本にはもうこられませんが、心はつながっていて祈っていてくれます。
-日本に派遣されてからの歩みはどのようでしたか?
2年間、横浜修道院に住んで日本の文化を少しずつ学び、YMCAで日本語を学び始めました。戸塚第二修道院と修練院の7年間では幼稚園教諭と保母の資格を取るための学校へ行き、聖母の園保育園でモンテッソリ教育を学びながら子供たち、先生たちと楽しく過ごしました。また日本在住のベトナム人のため教会での奉仕も豊かな体験でした。今は種子島の美しい自然の中で神様を賛美しながら、(時々ロケット発射のために祈ります)平和の園保育園で子供たち、地域の方々との交流を深めています。自動車の免許も取り、運転という奉仕も増えました。人と一緒にいることが楽しいです。
-今はどのように感じていますか?
派遣され最初の家族訪問でベトナムに帰ったときは、祖母や父と別れて再び日本に戻ることは大変つらかったです。10年目の家族訪問で帰国したとき、ゆっくり黙想できました。日本に来て泣くことも笑うこともたくさん体験して、100パーセント私の生きる管区は日本だと確信しました。(もちろんベトナムの管区との連絡は大切に行っていますが。)
そして、私は日本の永住権を取得しました。神様が見えない線を引いて、種をまいて神様が実現してくださる。・・・時間がかかっても、自分の召命には、神様の意味があると思っています。これからが楽しみです。