マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

FMM日本管区の歩み-3

主のぶどう畑、宣教地・熊本へ

 1898年10月19日、開設されたばかりの汽車に揺られながら、5名のFMMは幼きイエズス会のシスタ-の導きで最初の宣教地・熊本に到着し、市内にある幼きイエズス会の修道院に落ち着きました。翌朝、コ-ル師はこの5名に初めて会い、FMMの来日を非常に喜び、「長崎で殉教したあのフランシスコ会士たちがあなた方をここへ呼んだのです」と、宣教者としての喜びをもって一同を暖かく迎えました。「その時 聖フランシスコに見守られながら フランシスコの兄弟のようなコ-ル神父さまに導かれていくことの幸せを感じました」と コロンブ院長はマリ・ド・ラ・パシオンに報告しています。

 早速、一同は手取にあるコ-ル師の教会に案内され、そこで悲惨な状態におかれている病人の話に耳を傾けました。午後、患者たちが待つ中尾丸診療所を訪問し、そこから歩いて15分ほどの所に建っている5〜6軒のみすぼらしい家に辿り着きました。そのうちの一軒がFMMの修道院にあてられていました。この家は、クザン司教が創立者に伝えていたように 「狭く粗末な家で 到底 修道女が住めるような家ではありません」でしたが、シスタ-たちは聖フランシスコの娘にふさわしいこの貧しい家を「私たちの城」と呼び、その後14年もの長い間 住み続けることになります。それは、ハンセン病院の新築と部落の悲惨な病人たちの訪問、その家族の子どもや捨て子の世話、置き去りにされていた老人たちの救済など、「愛徳が要求すること」を優先させたためですが、土地そのものは 将来 新しい修道院や必要な建物を建てることができるほどの広さがありました。

 この地域は、コ-ル師が本妙寺周辺で悲惨な生活を強いられているハンセン病者の惨めな姿と助けを求める哀願の目に触れて心を痛め「その哀れさに胸がえぐられる思いがした」という場所です。コ-ル師は、先ず 南九州地区長として 熊本市内に最初の教会を建てた後、中尾丸の「ライ部落」に30名のハンセン病者が収容できる療養所を開き、2名の伝道士と幼きイエズス会のシスタ-たちの協力のもとに 司牧活動のかたわら患者の世話をしてきましたが、本妙寺とその周辺で苦しんでいるハンセン病者が大勢いたので、少しでも多くの病人が人間らしく生活していけるように、もっと大きなカトリック病院を建てる必要があると感じて、FMMを呼んだのでした。