「病気のために苦しんでいる人々を支え、彼らと共に歩むことは、現代社会において修道者が行うことのできる貴重な愛の行いです。」
今日、健康は人々の一番の関心事であり、大きな価値を持っています。病気はいつも突然人々の安定をおびやかすものです。病気により自分がどれほど不安定で弱いか、どれほどもろく健康状態に依存しているかを明らかにされ、また、いつの日かこの地上から消えていくものであることに直面させられます。病気によって内面から次のような問いかけが起こってきます。「どうして私が病気になっているのだろう?」「誰のせいで病気になったのだろう?」「私は治るのだろうか?」「私の家族や仕事はどうなるのだろうか?」
多くの病気は不安、ストレス、緊張、現代生活における葛藤や矛盾に起因し、また緊密につながっています。私たちの社会の生活様式はあまり健康的ではなく、その深い根には価値観の喪失があり、それが内面の無意味さを生み出しています。
私はある公立の大病院でチャプレンとしてパストラルケアの奉仕をしています。私たちは信仰によって、宗教が問題解決のための魔法のようなものではないことを知っています。ですから出会う人々に信仰を押し付けることなく、安易で早まった回答を与えることもせず、それを探求していく必要があるのです。そのためには私自身が霊的、人間的、また生命倫理の分野においても常に自己養成していく必要があります。
福音的価値の真理を人間の世界にもたらし、倫理的な選びのための力をくださる超越者へと目を向けさせること、相手に強制しないで福音の倫理の理想を示すこと、人間は完全に福音の理想に従うことはできないことを知りながらも、自分たちの限界を超えて存在する何かを見るように勧めること、これが私の毎日のミッションです。ゆっくりと、でも後ろを振り返らないで、一日という時のうちに目の前にいる人を大切に愛することです。
苦しみそれ自体を神はお望みにはなりません。病気は神からの罰ではなく、人間の状態なのです。人々と話していると、よく次のような質問を受けます。
「私たちはどうすれば苦しみについての考えを信仰の視点から癒し、清めることができるのでしょうか?」
「私たちの苦しみは、神が望んでおられるからではないということを、どうすれば他の人た ちにわかってもらえるでしょうか?」
私たちの考えは、私たちが神について持っているイメージを反映しています。信仰に成長していくと、時々、神について私たちが持っているイメージを清めるように求められます。これは、私が病人とその家族とほとんど毎日交わす話題です。苦しみのさ中にあってどのようにして憐れみ深い神を見出すことができるのでしょうか?私たちが幸福を得ようと努力しているなかで、私たちを支え、共に歩んでくださる父であり、かつ母である神を見る必要があります。神は人類の歴史において、私たちが相互に助け合い、神と協力して「日々の葛藤の中でお互いに助け合うこと」だけを求めておられるのです。これはイエスが私たちに託された責任です。
私たちは神の愛、配慮、慰めが再び人間性のうちに受肉できるように、神に従っていく使命を持っています。私たちは病者への心遣いをもって積極的に病者の傍らにいること、また、その言葉に耳を傾け、平和と信頼を伝えることによって「神の道具」になるのです。