マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

Sr.マリア・マグダレナ 谷川有子の巻

*洗礼はいつ、どんなきっかけで?

私は3歳の時に父が亡くなり母と兄の三人家族でしたが、小学校5年生までは鳥取県の米子で育ちました。母方の祖父は岡山のお寺の跡取りでしたが、お寺を継ぐのを嫌がり、一家で家を出てしまったそうです。母から実家の前には大きな石があったということを聞き、私が20歳の頃、流行していた映画の影響で「ルーツ」探しをして、岡山の田舎にすでに廃寺になったお寺を見つけました。米子では母の弟である叔父一家と祖母と一緒に住み、特別に熱心というわけではなくても、やはりお寺へのお参りは必ず全員で、倉吉の三徳山に度々行っていた事を覚えています。
キリスト教に初めて出会ったのは、小学校へ通う途中にあった教会で、その庭に見えたマリア像にとても心惹かれたんです。「きれいな人だなぁ…」と眺めながら、何かとても清らかなものを感じたんです。当時、私自身はしょっちゅう祖母から「悪い子だ!悪い子だ!」と言われていた聞き分けのない子どもだったので、よけいマリア像に何か自分とは正反対なものを見て憧れたのかもしれませんね。その後私が6年生の時、兄の就職をきっかけに母と三人で大阪に引っ越しました。
中学生の頃はセンチメンタルな青春時代で、詩を書いたりしながら、心の中で「大人になりたくない、清らかに死にたい!」なんてことを考えていました。そして、何かで見た観想会のシスターというのに憧れ、調べてみると、当時はまだ修道会の中にも階級制度みたいなものが残っていたことを知り、神様の世界にも差別があるのかと、がっかりしたんです。私には当時、障がい者で施設に入所していた叔母がいたので、世間の弱者に対する差別ということにはとても敏感に育ちました。それで、神様に向かって「私達、弱い者、貧しい者に、こんなに色々な試練を与えるあなたなんかに負けたくない!いつかその鼻をへしおってやる!」と怒りをぶつけていました。でも、今から思えばそれは、「神様がいる」ということを疑ってなかったんです。
それから高校生活はひたすら知的障がい児へのボランティアに燃えていました。卒業後は施設に勤めましたが、そこでは理想と現実のギャップに疲れてしまい、悩んだ時期を送りました。でも、その時に出会った人から「そんなに障がい児に対して熱い思いがあるなら、四流、五流の学校でもきちんと勉強してみたら?」と言われて一念発起し、短大に行って資格を取り、卒業後にまず同和保育所、そして次に知的障がい児の「通園施設」に就職したんです。「通園」は現在ではめずらしくないですが、当時は「入所」が一般的で、私は叔母のこともあって「どうして家族と切り離さなくてはならないのか…」と以前から疑問に思っていましたので、その施設は画期的だったんですね。それが、フランシスコ会が経営する「生野こどもの家」でした。

私はもちろん教会にも行っていませんでしたから、面接の時に「私は仏教徒でいつも数珠を持ち歩いているんですけど、いいですか?」と聞いたら「いいですよ。」と理事長だったドイツ人の神父様から言われましたが、「こどもの家」の職員もほとんど全員が信者ではなく、宗教色も一切ありませんでした。当時は“障がい児を地域に!”を合言葉に、障がい児が一般の保育所や学校に行く権利を社会に訴える運動を始めた時で、まわりの人たちからは 「あそこは“赤”だ…」なんて言われたりしていました。みんな理想に燃えた職員ばかりでしたから、理事長の神父様を差し置いて、運動に熱心でしたし、どちらかと言えば宗教には批判的な態度が多かったような気がします。

それが、勤め始めてから7年目に、神父様の薦めで東京に「モンテッソーリ」の勉強に行くことになり、そこで指導者だった松本静子先生に出会ったことで、私の人生が大きく変わりました。
松本先生は小さい人、弱い人に対していつも親切で穏やかに接し、“ともに”という姿勢を大切にした方でした。私はそれまでどちらかと言うと一匹狼的なところがあったのですが、「この人の生き方は何か他の人と違う。何が土台になっているんだろう。」と興味を持つようになり、先生が行っていた教会に行ってみたり、聖書を読んでみたりし始めたんです。そこで、ある日ミサの福音で読まれた「良きサマリア人のたとえ」を聞き、自分が今までしてきた“ボランティア”や“人助け”が、結局自分中心であったことに気づかされ、目の前におかれた人のために自分のすべてを差し出すイエスという方に出会う体験をしました。それまで、いつも教会の人達や神父様、シスター達に向かって、「言ってることと、やってることが違う」と批判してたけれど、見るべきことはそれではなく、このイエスの生き方だ!と感じたんですね。
それから1年間のモンテッソーリの勉強を終えて生野に帰り、理事長だった神父様に、洗礼を受けたいと言いました。神父様は「頭だいじょうぶ?」と言いながらも喜んでくださり、要理の勉強が始まりましたが、私が「それはおかしい!」と文句ばかり言うので、神父様から「もう洗礼を授けない!どうして洗礼を受けたいの?」と問われて、とっさに「イエスさま好きやねん。」と答えると、「わかった。」と言い、もう文句を言わないという約束で準備を引き受けてくださいました。母には「お母さんの宗教を否定するんじゃない、お父さんの位牌も大切にするから。」と話し、理解してもらい、その年のクリスマスに32歳で洗礼を受けました。

*  修道生活を考えたのは?

受洗後に堅信の準備を始めたんですが、それを指導してくださった日本人のフランシスコ会の神父様のお話しがとってもおもしろくて、とにかくびんびんと心に響いたんです。何を見ても、何を聞いてもイエスのことが気になるようになって、もっと本当のイエスについて知りたいと思い、真剣に聖書の中のイエス・キリストのことばを聴き始めるようになりました。それで、ついに施設を辞めて、カテキスタ学園に行き、勉強が終わったらそのままカテキスタ会に入会して、教会の幼稚園で働くつもりだったのですが、堅信の準備以来お世話になっていた神父様に相談したところ、「あなたにカテキスタは合わない。」と言われてしまい、「FMMという会ならばピンからキリまでのシスターがいるから、あなたでもどこかに引っかかるだろう…」と、神戸修道院のシスターに紹介してくださったんです。そこで一人のシスターから「修道生活は、自分のしたい事ができるところではないですよ。その覚悟がありますか?」と問われ、「そうなんだ!イエスにすべて委ねる。これが私の道だ!」と感じたんですね。その後戸塚の黙想会にも参加し、34歳の時に入会を願いました。

*入会後はどのように?

アスピラントから修練期までは戸塚で過ごしました。おばあちゃんのシスターと畑で一緒に働いたり、高齢のシスター達の生活を間近に見ながら、その信仰の深さ、強さと同時に、自分より経験も浅く年も若い責任者を相手に、誓った従順を生きる、修道生活の厳しさも学ばせてもらったと思います。初誓願後はまたまた理想と現実のギャップや、規則に縛られている感覚に、「これでいいんだろうか?」と迷うこともありましたが、終生誓願を決め、その準備の黙想で、受洗を決めた時のように、再びイエスに包まれる体験をして、「この道だ!」と確信しました。
それからずっと子ども達に関わる使徒職についてきましたが、入会25周年も過ぎ、いま新しい歩みを始めさせていただいているところです。若い頃、「神さまの鼻を明かしてやろう!」と息巻いていたけれど、振り返れば、どれだけ守られ、助けられ、愛されてきたのかと…ほんとうにありがたいです。私はイエス・キリストに惚れてますねん!!