来日10周年記念の年を迎えて
1908年に本会は来日10年目を迎えましたが、特別に記念行事を行ったわけではありませんでした。この10年は、日本の文化も言葉も何も知らずに来日したシスタ-たちにとって無我夢中で宣教活動に取り組んできた結果、奇跡的にも 熊本を拠点に 久留米と人吉にも修道院が新設されてFMMの基盤が一層固められていった意義深い年月でした。その母体である熊本修道院のコロンブ院長は、この10年をふりかえって 次のような事柄を手紙で会長に報告しています。 先ず 来日わずか3年目に「待労院」が新築されたこと、その後、診療所として引き継がれた中尾丸の施療院に一日平均50人もの患者が治療を受けに来ていること、来日当初 中尾丸の周辺に限られていた病人訪問が 徐々に3マイル(約4.5㎞)も4マイル(約6㎞)も離れているライ部落にまで広がっていったこと、週一回は伝道師と一緒に病人の家を訪問して回っていること、「こどもの家」には子どもが30名以上も生活していること、常にシスタ-たちを支え、助け、共に祈り、働き、愛の奉仕活動に献身してきた旧信者の伝道師と若い信徒たちの「縁の下の力持ち」的存在の大きさなど。
この伝道師たちは、本会来日以前から コ-ル師のもとで 病人の世話をし、キリストの教えを伝え、洗礼を授けるために病院だけでなく、家庭訪問も行ってきました。コ-ル師はこの事業を本会に託したのちも 同じ伝道師をシスタ-たちの良き協力者として残してくださいました。日本における本会の宣教活動10年目を迎えて、院長は、キリシタンの先祖から受け継いてきた伝道師たちの堅固な信仰とその献身的な働きぶりに 次のような賞賛の言葉を会長に寄せています。
私たちには伝道師さんが男女合わせて5名おります。私たちは非常に貧乏な生活をしていますが、どんなに大きな犠牲を払ってでも 伝道師さん方を手放すことはいたしません。伝道師さんが助けてくださらなければ、病人に会いに行くのも難しいでしょう。この方々は、土地の言葉も メンタリティも生活習慣も よくご存知なので、地域の人々に大きな影響力をもっています。伝道師さん方は苦しみや問題なしに神の国を広げることはできないことを承知していますが、それでも 危険な場所には行かせないようにしています。
長いキリシタン迫害時代が終わったとはいえ、当時の長崎教区では、司祭もシスタ-たちも、病人や貧しい人を訪問するたびに 石を投げつけられたり 侮辱の言葉をあびせられたりしていました。単に 外国人というだけで 軽蔑されていたのです。更に、泥棒、台風、洪水、病気などで苦しむことも度々ありましたが、強い信仰によって 勇敢に 宣教活動に取り組んできました。未だ経験したことのない言葉や習慣をもった国で生活するだけでも多くの困難が付きまとう中で、シスタ-たちが地域社会を歩き回り、貧困家庭には物質的援助を与えながら宣教活動に励むことができたのは、日本人司祭と伝道師の助けがあったおかげでした。日常の平凡な生活を互いに助け合いながら活動していくうちに、少しずつ キリストの教えを信じて洗礼を受けたいと望む人が目の前に現れ、ようやく成果が上がり始めたところでした。
また、院長は、シスタ-たちの力強い協力者として 長崎地方から働きにきた旧信徒の女性をあげています。1901年以来 僅か7年の間に、20名以上の女性が、フランシスコの生き方に惹かれて 熊本の修道院に来て働いていました。その中から 徐々に 修道生活を望んで志願者となった女性が出てきました。そのうちの数名が本会の「準会員」となって修道生活の第一歩を踏み出しています。院長は、この準会員たちのお惜しみない働きが 愛の事業の発展に どれほど大きな助けになったかを会長に伝えています。
準会員たちがどれほど献身的に働いてくださったことでしょう!
本当に言葉では言い表せないくらいです。この人たちは「アシジの貧者の
真の娘になりたい!」と心から望んでいます。
私たちの人数が少ないので本当に大助かりです。この人たちがいなければ、
私たちだけでは多種多様にわたる仕事の必要に 到底 対応できなかったでしょう。
そのうちの何人かは人吉と久留米の共同体へ手伝いに行っています。
こうして、この僅か10年間に、愛の宣教活動は、熊本から久留米と人吉に広がっていきましたが、更に、北端の北海道にまで伸びようとしていました。