マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

FMM日本管区の歩み-11

カナダ管区に支えられた久留米と人吉の創立

1905年 (明治38年)、9月に日露戦争が終結して、早くも12月には管区長のマドレヌ・ド・パジは中国から熊本に到着し、生前マリ・ド・ラ・パシオンが約束していた久留米と人吉の創立に向けて具体的に動き出しました。先ず、コロンブ院長とともに久留米と人吉を見て回ったあと、長崎 でクザン司教と最終的な打合せを済ませ、長崎港ではカナダ管区から派遣されてきた4名の会員を迎えています。それで5名で始まった日本共同体が18名にまでふくれ上がりました。

1906年 (明治39年) 1月6日、本会創立記念日にあたる主の公現の祭日に、新しい共同体へ派遣されるメンバ-が発表されました。

-久留米-
*マリ・アマビリス・ド・ジェズ( M. Amabilis de Jesus )カナダ人
*マリ・ド・サン・リュク( M. de St. Luc )カナダ人
*マリ・アニック( M. Annick )フランス人、熊本修道院創設者の一人
*アグレジェ(準会員)のクララ畑原サノと志願者1名、熊本より送られる日本人

-人   吉 -
*マリ・ド・メルセデス( M. de Mercedes )スペイン人
*マリ・ド・ラ・ピュルテ(M. de la Purete)フランス人で熊本修道院創設者の一人
*マリ・ド・サント・マルタ( M de Ste. Marthe )フランス人
*アグレジェ(準会員)のエリザベト長曽我部トメと志願者1名、熊本より送られる日本人

信者の歓迎を受ける

早速、新しい住まいの準備のために、日本人のアグレジェ(準会員)と志願者が現地に先着し、その一週間後に、シスタ-たちは M.マドレヌ・ド・パジとM.コロンブに伴われて コ-ル師とソ-レ師によって開かれた宣教地へ出発しました。宣教師たちは 方々で信者を見つけて信仰の再教育を行い、カテキスタを養成し、その助けのもとに人々にキリストの教えを説いて歩きまわり、土地の有力者と近づきになり、やがて 広い土地を購入して教会を建て、診療所などの福祉施設を開いて貧しい人や病める人たちの救済と宣教に努めていました。

久留米修道院の創設

1906年 (明治39年) 1月11日、M.アマビリスとM.サン・リュク、それに熊本で 2年の宣教体験をもつM.アニックのグル-プは M.マドレヌ・ド・パジ管区長と久留米の院長も兼務する熊本修道院のM.コロンブ院長、そして副院長 M.ベアタに伴われて 久留米へ向かいました。時は人力車時代のこと、博多行の汽車は一日3本しか走っておらず、熊本から久留米までの汽車賃は95銭、現在の1/3000の値段であったと言われます。一行は3等車に乗り込み、目的地までの3時間を思い思いに過ごしました。やっと実現まで漕ぎ着けたこの思いを M.マドレヌ・ド・パジは「創立者がお引き受けになった修道院を開き、また新しい場所に主の祭壇を設けに行けるかと思うと、本当に幸せです」と書き残しています。

福岡県久留米市が、近隣の今村で初めてキリシタン部落が発見されて以来、隠れキリシタンの村として注目されるようになったことは前に述べましたが、その歴史を更に遡ってみると、今村がキリシタン部落となった次第は 毛利元就の末子、毛利秀包(ひでかね)夫妻が1587年にキリシタンとして久留米城に入城した時に始まります。秀包はキリシタン大名・大友宗麟の七女で熱心な信者であった引地と結ばれ、その勧めで久留米入城一年前に洗礼を受けていました。このように 城主がキリシタン大名であれば 当然、部下の武士も百姓・町人たちも 進んでキリシタンになりました。大名の保護のもとに建てられた当時の天主堂には最も多い時で7,000人の信徒がいたと言われます。ところが 関が原の戦いで西軍に味方した秀包は豊臣の敗戦と同時に全てを失い、流浪の身となって1601年に没しました。そのために久留米のキリシタンは大きな打撃を被りました。それから266年の年月が経過し、今村を中心にその周辺で発見されたのが毛利秀包時代からのキリシタンでした。

久留米の家

久留米駅に着いた一行はソ-レ師のカテキスタと先着組の二人に迎えられ、人力車でソ-レ師の仮診療所と修道院として用意されていた日本家屋へ急ぎました。教会の敷地内にあるこれらの建物は仮教会から歩いて10分程の所にありました。この住まいは茶室や客間などを備えた日本古来の家屋でありながら素敵な洋式の家で、M.マドレヌ・ド・パジは 家に入ると先ず 創立者が特別大切にしていた「膝の上に幼子イエスを抱いている聖母」の像を置き、そして 聖ヨゼフ、教皇ピオ10世、創立者の写真を飾りました。この共同体の所有物はこれだけですが、このような素晴らしい住まいを与えてくださった神に感謝をこめて 皆でテ・デウムとマニフィカトを歌いました。ソ-レ師は 特に シスタ-たちのために教会の祭壇が見渡せる小聖堂も作ってありました。準備が万端整うと、シスタ-たちは聖母像の前に跪き、この小さな共同体の真の院長である聖母にロザリオの祈りを熱心に唱えました。その翌日、姉妹たちは 仮教会の司祭館でソ-レ師から暖かい歓迎と祝福を受け、帰りには女子トラピスト会で製造されたチ-ズ、畑で栽培されたキャベツ2箇、パン2箇、お手製のビスケットをいただき、神のはからいに感謝しつつ 修道院へ戻りました。その翌日、「ソ-レ師と一緒に 家中で最良の場所にイエスのお住まいを作りました。例え 毎日 聖体顕示ができなくとも、主が同じ屋根の下で生活を共にしてくださるかと思うと幸せでした」と、日誌に記されています。やがて、貧しくつつましく生活している信者の家族が卵やお菓子をもって歓迎の挨拶に来てくれました。その殆んどが非常に貧しい底辺の生活を送っている人たちだけに、シスタ-たちは非常に感動して差し出された品物を喜んで受け取りました。わずか3日間の久留米滞在を終えて、M.マドレヌ・ド・パジとMコロンブは次の人吉修道院創設のために琵琶崎修道院へ戻りました。

久留米創立当時の信者