マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

FMM日本管区の歩み-84

管区長 マリピエ-ルジェズの帰天 

1940年(昭和15年)、激動の幕開けを迎えていた世界。軍事政権の登場によって世界を相手に大戦争の影が忍びこんでいた日本。そのような不穏な動きの中で「日本殉教者の聖母」管区が遭遇した管区長M.ピエ-ル・ド・ジェズの急逝は、フィリピンと日本の管区に大きな衝撃を与えました。最後まで管区長と共に歩んだ秘書のM.アデマ-ルが書き残した「マリ・ピエ-ル・ド・ジェズの最後の日々」と題する手記をここに転載いたします。

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「エンマヌエルは 永遠から愛しておられた花嫁をこの地上に探しに来られた」                   (創立者の黙想書「聖霊降臨の火曜日」より)

マリ・ピエ-ル・ド・ジェズは、1940年5月14日、聖霊降臨の火曜日の創立者の生誕記念日に フイリピンのバギオで帰天された。

「創立者生誕百周年祭」の最終日、メ-ル・ピエ-ルは花嫁の45年間の献身的な宣教活動の後、その冠が整えられ愛する聖主のもとへ昇る日を迎えた。

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M.ピエ-ルの痩せ細った体と疲れきった様子が姉妹たちの注意を引くようになったのは、総評議会を終えて1939年 (昭和14年) にフィリピンへ戻った時からである。それでも9月には日本へ出発する用意が万端整い、M.ピエ-ルは日本の姉妹たちに総評議会の伝達ができるのを非常に楽しみにしていた。ところが重要な用事で出発が延期されたために、ミンダナオ島一帯の修道院を訪問することになった。1940年(昭和15年)には悪性の気管支炎に罹り、それが未だ回復しないまま、2月23日に船でミンダナオへ出発した。2か月前から食欲がなく食事もとれない状態にありながら、各修道院や事業で皆の話に忍耐深く耳を傾け、自分を与え尽くし、3月7日に酷暑のマニラへ帰った。次の日、極度の疲労のために山の上の涼しいバギオ修道院に移され、ここでM.ピエ-ルの闘病生活が始まった。検査では貧血と腎臓の炎症が見つかっただけで癌の兆候もなく、胃癌を心配していたM.ピエ-ルを少し安心させた。東京の聖母病院に行けたらどんなに幸せかと思い「本会の病院で姉妹たちに看護してもらえることは本当に有り難いこと」と言っていた。

4月13日、M.ピエ-ルの容態が急変しメ-ル(会長)に電報が送られた。やがて腎臓と肝臓の専門医によって 肝臓と膵臓に癌が発見された。バギオで黙想中の姉妹たちの熱心な9日間の祈り、すべての修道院で捧げられるに9日間のミサ、多くの姉妹が回復の奇跡を願って捧げる隠れた犠牲がメ-ル・ピエ-ルを支えていた。本人には未だに真実が告げられていなかったが、本人はよく分かっていた。そして27日、副管区長のM.ニバルドとM.アデマ-ルがドクタ-から「管区長様は非常に重態で 長くて一か月、或いはそれより早く天国に行かれる」と告げられた。その翌日、心の準備が出来ていた管区長はこの終油の秘蹟を受けた。

5月11日、もう殆ど目を開けられず、姉妹が代わる代わる傍らに来たが、何もお分かりにならないように感じた。しかし最後に3人のアグレジェが来た時「3人を祝福したい」と仰って感激する3人を祝福された。いつも最も小さい人々を特に愛されたM.ピエ-ルの最後の行為であった。

5月13日、ミサ前M.ピエ-ルは「愛なるイエスよ、私を憐れんでください」とつぶやくように言われ、看護係の姉妹の助けをかりて十字架のしるしをされ、「聖父と聖子と聖霊の御名によって」とはっきり唱えられた。これがM.ピエ-ルの最後の言葉となった。午後、昏睡に入られ、臨終の祈りが続けられた。

5月14日、午後3時半過ぎ、M.ニバルドをはじめ多くの姉妹たちが見守る中、一度目を開け、そして閉じられた。創立者の生誕100周年最後の日だった。フィリピンの最初のアグレジェは夢の中でM.ピエ-ルが 大勢の姉妹たちと一緒に真っ白い服を来て目の眩むような輝く光に包まれているのを見た。

その翌日、バギオで葬儀ミサと埋葬が行われ、その後もマニラの管区長館をはじめ世界中の多くの場所で追悼ミサが捧げられた。

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日本では、総評議会出席のためロ-マへ旅立つ管区長を東京修道院の玄関で見送った2年前の6月11日が最後の別れとなりました。この日の日誌に「私たちをあんなに愛してくださった管区長様とのお別れに私たちの心は締め付けられている。お別れに胸がいっぱいの私たち一人ひとりを祝福し、アンブラッセしてくださった管区長様」との別れが記録されていますが、それがこの世での別れとなったのです。

この悲しい現実を知らせる電報が届いた5月14日の日誌にはこう記録されています。「すべてが終わりました。この悲しみを言葉でどう表現したらよいか分かりません。ただ黙々と神様が求めておられる大きな犠牲を苦しみ耐えているだけです。もう管区長様は生きていらっしゃらないとはなんと悲しいことでしょう。この世で再会することも、あの喜びと慰めに満ちた声を聞くことも できなくなりました。フィアト!フィアト!フィアト! 神様が管区長様を深く愛した娘たちの人知れず流す涙を受けとめてくださいますように」と。

管区長の帰天が日本の教会に伝えられると、土井大司教は「日本のために働いてくださったこの偉大な宣教修道女に心から感謝しております」とM.ピエ-ルに深い感謝の念を表されました。駐日ロ-マ使節のマレラ大司教は「メ-ル・ピエ-ルは管区長になるように生まれてきました。管区長に必要な資質をすべて備えており、あらゆる面で称賛に価します」と。またシャンボン大司教も「その勇気と正しい判断力、折りある毎に内部から滲み出てくる様々な資質、それが忘れ去られるようなことは決してないでしょう」と、その死を心から悔まれました。

帰天後、日本からもM.ピエ-ルの死を悼む数通もの手紙が寄せられました。そのどれもが「管区長様は私たちの心をよく分かってくださった方です」という言葉で溢れていました。常に創立者の心をもった偉大な宣教者であったM.ピエ-ル・ド・ジェズは、創立者生誕100年祭の幕が下ろされたその日に、天国でママンとの再会に喜び踊ったことでしょう。帰天5日前に病床で「ママン!ママンがいらっしゃる!」と叫ばれたように。