マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

FMM日本管区の歩み-85

日本管区から他管区への最初の派遣

M.ピエ-ル・ド・ジェズは、1938年 (昭和13年)に日本人の会員を中国へ派遣していますが、これは日本管区にとって最初の他管区への派遣でした。それは、日中戦争で中国が日本に占領されその支配下のもとにおかれていた時に、中国の管区長 M.フランソワ・ミッシェルがM.ピエ-ルに「中国在住の日本人のために日本人会員の派遣」を要請していたからでした。これに応え、1938年(昭和13年)から1943年(昭和18年)までに次の5名の誓願者が中国へ派遣されました。

*マリ・ノ-トル・ダム・デュ・ジャポン(エラ 田中雪子)1938-1947年           (フィリピンより → 青島 → チェフ-:日本語学校の英語教師)

*マリ・アロイジオ(マリ・ルイズ  上田二三) 1939-1946年               (日本より → チェフ- → 青島:幼稚園教諭)

*マリ・御昇天(マリア  榎戸久子) 1941-1947年                    (フィリピンより → 青島 → チェフ-:幼稚園教諭、日本語レッスン)

*マリ・イメルダ(モニカ  福永淳子) 1941-1947年                   (日本より → 青島 → 済南府 → 南京 → 上海:中学教師)

*マリ・セルビリアナ(マルガリタ 中村タキ)1943-1947年                (日本より → 上海:看護婦、通訳)

中国への派遣は1940年(昭和15年)の管区長帰天後も管区長代行のM.マグダラによって継続されましたが、1947年(昭和22年)に全員が帰国しています。幸いにも中国の宣教地に着いた若い宣教女たちは、M.アポリナリア、M.アデラ-ル、M.セルベロンなど、かつて日本で宣教活動をしていたベテランの宣教女たちの助けを受けることができました。

こうして当時、日本とフィリピンが所属していた「日本の殉教者の聖母」管区は、1946年に後任の管区長のM.マリ・ド・セルベロンが再び日本の土を踏む日まで、副管区長M.マリ・マグダラの導きのもとに世界大戦という大試練に立ち向かっていくことになりました。