マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

FMM日本管区の歩み-7

中尾丸における施療院の歩み

 

pajji

パジ管区長

中尾丸施療院の生活に大きな変化が見られるようになったのは、FMM来日3か月後の1899 (明治32) 頃からでした。この年は、日本と中国の管区長マリ・マドレヌ・ド・パジの初めての日本訪問と小倉第12師団軍医部長となった医者で作家の森鴎外の管内病院視察という意外な出来事で幕が開けました。

 113日の夜、管区長のマリマドレヌパジとフランス人のマリサンユ-ラリを乗せた船が長崎港に着きました。二人は、聖ペトロバプチスタと25名の同志が殉教していった日のことを思いめぐらしつつ3日間を長崎で過ごしたのち、熊本の共同体を訪問しました。コロンブ院長は、管区長がその余りの貧しさを見て目に涙を一杯浮かべているの気づき、こう言いました「私たちは何の不足もなく生活しています。今の生活で充分です。必要があれば、主が必ず救いの手を差し伸べてくださいます。初期のフランシスコの兄弟たちは清貧の生活によって日本の地に浸透しました」と。 実際、この宣教地で管区長が目にしたのはシスタ-たちの生活に見られるフランシスコの宣教精神でした。最初の頃ライを恐れてこの場所に寄り付かなかった近所の人たちも、今ではシスタ-たちの貧しい生活を見て親しみを感じ、気軽にこの家に近づいて来るようになっていたのです。その中には身寄りのない子供たちや年寄りも大勢いました。

 滞在中、管区長は中尾丸にも出かけて行き、施療院の患者の世話と宿屋に寝泊りしている病人の手当てを日課としていました。 特に、施療院では働く能力があるのに何もせず退屈に暮らしている患者を見て、仕事さえあれば気晴らしになり道徳の低下を防ぐこともできると考え、それぞれの能力に応じた仕事を与え、また 死ぬと葬式もあげてもらえず 犬や猫のように土中に埋められる患者を初めてキリスト教のやり方で手厚く葬りました。このことを知って、部落のライ者たちは自分にも同じようにしてほしいとシスタ-たちに頼んでいました。

3、管区長はおよそ一か月半に及ぶ訪問を終え、中国から一緒に来たSr.ユ-ラリをこの共同体に残し、その代わりSr.トリフィンを連れて中国へ戻りました。メンバ-の交代です。

 本妙寺境内とその周辺のライ部落で行われていた愛の奉仕活動を書き留めていた作家がいました。それは医者の森鴎外で、彼は9月の末に管内の病院視察に熊本を訪問し、そこで見たこと、聞いたこと、感じたことを医者の目と作家の感性で「小倉日記」に記録していたと言われます。それによると、彼は 「砂薬師坂を下って田んぼの間を通って本妙寺へ入り、そこで車を止めて 銭を乞う廃人23人に遭遇し、寺に近づくに連れて目にする大勢の孤児の中にライ病の孤児が多い」ことに気づき、さらに「ライ者がたむろしている険しい160段の石段を進んでいくと、その半腹の左右に共立難病医院あり」と。そして、本妙寺畔にある中尾丸施療所で医療奉仕をしていたシスタ-たちを見て、こうも書き残しました。

「別に本妙寺畔に救療院あり。加持力(カトリック)教「フランチスカアネル」派の仏蘭西女子数人の経営に成る。医学あるものにあらずと雖も(いえども)、間々薬を投ず。その功績賞するに堪えたるものあり。」 (森鴎外「小倉日記」より)

当時、政府の救ライ事業もライ療養所も皆無の時代に、国立ライ療養所に先駆けて日本人のライ者の世話を始めたのは、主にカトリックとプロテスタントの外国宣教師たちでした。森鴎外は本妙寺の近くにある「救ライ院」で外国人宣教修道女が遥々遠い異国の地から来て日本の社会から見放されていたライ者や貧者の世話に献身している愛の奉仕を目の当たりにしていますが、これらの記事からも当時の状況を伺い知ることができます。

 

 この年の11月、いよいよ病院新築に向けて動き始めました。「ライ」ということで土地捜し、役所や警察関係の仕事、国の法律など様々な困難や障害に直面しながら、コ-ル師とコロンブ院長は、深堀師の若い力を借りて進めてきましたが、とうとう過労で倒れてしまいました。「実現すれば奇跡かと思われるほど十字架の道であった」と日誌に書かれています。

中尾丸
中尾丸施療院の患者たち

1900年、病院新築の問題を解決するために、管区長の二回目の訪問が実施されました。来日早々管区長は司祭や関係者と話し合う一方、疲労しきっている共同体のために一週間の黙想会を企画し、この期間中は管区長が施療院の仕事を一手に引き受けて働きました。黙想会終了後、シスターたちが新築される土地に行ってみると、驚いたことに、礎石が立てられていました。こうして、管区長によって無事に定礎式らしい式を挙げることもできました。この土地はシスターたちの共同体と同じ敷地内にあったのです。建築の日も近くなりました。