10年以上会っていないシスターの夢を見た。痩せて小柄であるが、声音がどっしり落ち着いており、眼光が鋭い方だ。
昨晩の彼女は目の前にいる女性を「一挙一動も見逃すまい」と見据えていた。私は彼女らのすぐ右に立ち、少し首をかしげて見ていた。じっと見据える姿に、「ああ、相変わらずこわいな」とほんとに小さな声でつぶやいたのである。それは考えて言ったのでもなく、またもちろん聞かせようと思ったのでもない。思わず、口の端からこぼれてしまったのだ。
途端、彼女は私の左頬に指を伸ばすと、頬の肉を柔らかくつまんだ。いたずらをした子供を少し咎めるように、それでいて「よしよし」というかのような温かい気持ちが感じられた。私は首をすくめながらも、親の気が引けたことを喜ぶ子どものようなこそばゆさを味わっていた。
修道院に入った35年前、アスピラントとして横浜市戸塚区にある修道院に住んだ。地上三階建ての建物の1階と2階は、「黙想の家」と呼ばれる宿泊施設だった。3階が修道院で、6人のシスターが住んでいた。4人は修道院に入って30年以上は経っているベテランであり、残り2人は30代半ばだった。1人は先月に終生誓願を立てたばかりであり、1番若いシスターはこれから終生誓願を立てるための準備をしていた。
修道院に入ると、最初はアスピラント(希望する者)、次はプレノビス(修練に入る前段階)そしてノビス(修練者:修練院は2年間)となる。修練院に入ったときからシスター、と呼ばれるようになる。修練院を卒業し、初誓願を立てるとシスターとしての実生活が始まる。その後、おおむね5〜6年を経て、終生誓願をたてる。
その戸塚修道院の責任者が夢に出てきたシスタープリシマであった。これは本名ではない。
1960年代ごろまでは修道名という本名とは違う名前が与えられたのである。
朝晩の祈りをシスターたちと一緒にしながら、黙想の家の掃除、宿泊客用のシーツやタオルの洗濯、食堂の準備などをした。ある日のこと、職員の男性が機械で黙想の家の周りの草を刈った。シスタープリシマは私に草を集めて捨てるように言いつけた。黙想の家1階は食堂や応接間、講義室など共同部分があり、2階には庭に面した南側だけで20以上の個室があった。つまり建物周りの草集め、と言ってもかなり広かったのだ。刈られた草を集めては大きなビニール袋に入れていった。袋はすぐに一杯になるが、半日かかって半分も終わることが出来なかった。他の職員やシスターの手を借りればその日に終わったかもしれない。しかし私には頼むという選択肢はなかった。ビニール袋をいくつも作りながら、もやもやとした気持ちになった。
私は理系が得意なだけの、コミュニケーションスキルの乏しい25歳だった。友達を作ることが不得意でも学校生活はそんなに不自由ではなかった。自分から何かを要求しなくても先生たちは優しかった。薬科大学を卒業し、保健所に勤めた。そこでも何の競争もなく、のんびりと決まった業務をこなせばよかった。それまで楽をしてきた私は、大きな庭一面に刈られた草を見て、呆然としていた。
1日目が終わり、シスタープリシマに「作業はどうなっているか?」と尋ねられた。「まだ3分の1しか終わりません」と答えたが、手伝ってもらえないか? と聞くことを思いつかなかった。60歳になった今なら、どのくらいで目の前の仕事が終わるか、どうすれば早く終わるか、誰に手伝ってもらえるのか、とか頭がどんどん働く。それは年の功ともいえるかもしれないが、その時はそんなことを思いつかなくてよかった。シスタープリシマは「なんでそんなに時間がかかるのか?」とも「では誰を手伝わせよう」とも言わなかった。「ああそうか」と言っただけであった。さて次の日にも終わらなかったが、最初の日ほど、どうして私1人で? などと考えなった。ざわざわと揺れていた庭の木が、さわさわという音になっていた。3日目終わった後、シスタープリシマに報告に言った時、何とねぎらわれたのか覚えていない。ただ、「おまえ作業がのろい」とは最後まで言われなかった。
この3日間のことは、今になれば「入門儀式」のようなものだったのではないか、と思う。例えばお寺に修行入門を願うとき、門前払いをされるという。玄関で跪いて願い、時には門の外に追い出され、それでも願い続ける。しかしそれは修行を望む人の決心のほどを、迎える僧侶たちがじっと見守るためだと言う。私は3日間、ほとんど下を向いていたのだが、後頭部にシスタープリシマの視線を感じていた。それは「根を上げずに最後までやるか?」と私の性根を観察されていたのであり、同時に見守られてもいた。
1年間のアスピラントが終わり、次の年にプレノビスとなった。
そして今、住んでいる新宿にある聖母病院の修道院に移った時、シスタープリシマからギターを買っていただいた。戸塚修道院で習い始め、歌の伴奏を少し出来るようになっていた。シスタープリシマは口数の少ない方で、戸塚にいた間もそれほどお話しした記憶がない。そう言う私も無口なほうなので、食卓に私たち二人だけだったら何も話さずに食事が終わるような気がする。しかしその鋭い視線はいつも感じていた。ぎょろりとしているのに、おおらかにどっしりと「見守る」目だった。
さて、冒頭の夢から覚めた朝、「これは何のことだろう?」と思った。彼女も90才を超えているはずだ。まさか現身を離れて……、と思ったが、大地震に見舞われた熊本の地で「元気でいる」と知った。
言葉をたくさん継ぐことはない。
無駄に褒めも励ましもしない。
それでもその目に受容されていたことは今日までの私を支えている。 (Sr.M.O)