ー出身地は?
私は北海道の美唄で、7人兄弟の末っ子として生まれました。母が45歳の時の最後の子どもでしたし、終戦直後の大変な時生まれましたので、「いらない子」と勝手に思い込んでいました。ところが、40歳の頃、黙想会に参加した時、指導者から「あなたのお母さんのお腹に入り、お母さんの声を聞いてみる祈りをしてみたら」と勧められました。私は祈ってみようと思って座り、母を想像し、すーと母のお腹の中に入りました。入ったとたんに母は、満面の笑みで私を見て「ああ、この子は美代子の生まれ代わりだ」と言うのです。「えー美代子ってだれだ?」2歳上の姉で小さい時亡くなっていたことは聞いていました。それで、母が私を妊娠したことで、こんなに喜んでいる、ということがわかり、私は本当に癒されました。
ー家族は?
私が小学校に入る頃に、父はもう定年で退職していましたので、兄が一家を支えていました。ところが、その兄が職業を変えなければならなくなり、兄は神奈川県に移りました。それで、経済的な問題もあり、手に職を持たせたいという母の強い望みで、看護の道へ進むことになったのです。2つの看護学校を受験しましたが、母が「天使病院付属看護学校」に進学するように勧めました。そこで初めてシスターという人に出会いましたが、特に何も感じませんでした。
ーキリスト教との出会いは?
私は、準看護学校1年生の時、原体験とも言える信仰体験をしました。お聖堂に入り椅子に座り、何気なく手を広げて、じーっと眺めていました。ちょうど血管の勉強をしていた時でしたので、動脈の血液は心臓から押し出されて全身に送られるけれど、静脈の血液はどうやって心臓に帰るのだろうかと考えていました。すると突然でしたが、「私の心臓は私が動かしているのではない。私の心臓を動かして私を生かしてくださる方がいるのではないか?私を創ってくださった方がいらっしゃる。」と気づいたのです。
私はいろいろなことに反発した人間でしたが、その後自分の意志でキリスト教の勉強を始めました。そして、2年生の時受洗の恵みをいただきました。卒業後天使病院で1年間働きましたが、どうしても全日制の高校に行きたくて、ある修道会のシスターから寮母をしながら学校に通える道があることを教えていただき、早速その学校に入り直しました。ここでの3年間は学校が終わると、寮母として夜の9時まで働き全く自由がなく、それが一番辛く、悲しかったです。自由って本当に大切なんだなあという体験でもありました。
その間も信者として信仰生活を守りながら、その後出会ったのが、殉教者聖ゲオルギオのフランシスコ修道会のドイツ人の管区長でした。面接の時「どうしたいのか?」と聞かれ、私は「もう少し看護を勉強したいです。」と答えましたら「いいですよ、やって下さい。」と言われて面接が終わりました。奨学金を出していただき、天使女子短期大学に入学することができました。卒業後、青森でこの会が経営している老人ホームで、看護師として1年間働きましたが、看護師として病院で働きたいと思うようになりました。
奨学金を出していただきながら、この修道会に申し訳ないと思いましたが、管区長は「あなたを助けたのは、うちの会に入れるためではなく、あなたが本当にキリスト者として信仰をもって、よき社会人になるためなのです!返済は何年かかってもいいですよ。」と言われ私は感激しました。
ーFMMとの出会いは?
その後、私は、神奈川県にある北里大学病院に移り、そこで3年間働きました。その間、戸塚の聖母の園で行われた召命黙想会に与ったことがあります。そして29歳の時、マリアの宣教者フランシスコ修道会に、入会することになるのですが、入会前 東京の聖母老人ホームで看護師として働きながら、志願期を過ごしました。
そこで助産師であり看護師のシスターベルナルデン加藤との出会いが、私の召命の確信となりました。ある日、私が医務室に入っていくと「武田さん見て。ハエが一匹この部屋からなかなか出ないのよねー。かわいいでしょう!」と言うのです。私は「汚いんじゃないですか。」と言ってしまいました。またある日には「ちょっとこのお花を見て!この茎からどうしてこんなきれいな花が咲くのかしら?神様ってすごいねー」とか。まだ神体験の少なかった私は、なんとすごい人なんだろうと思いました。明るく子供のような心をもって、また小さき者として皆に仕えながら、喜びをもって、神さまを賛美していらっしゃる彼女の姿の中に「アシジの聖フランシスコ」の姿を見ることができました。
―入会後は、どの様な生活を送られましたか?
2年間の修練期の間、私は沢山の神体験をしました。もちろん挫折もあり、逃げ出そうかなーと思った事もありました。ある日、修練長と副修練長が私のことを心配して、話をしていることを感じ取りました。そんなこともあって私はその晩夢を見ました。旧修練院の建物を壊すため、その骨組だけしかありませんでした。私がそのてっぺんに立ちすとーんと降りたら、ふさふさふさとした青草の上にすとーんとしっかり立てたんです。そして「ここでキリスト者として生きよう」という言葉が心に浮かんだのです。それは確かに私の言葉ではありませんでした。「ここで」とは修練院のことで、それ以来、「私はこれでいいんだ」という確信を持てるようになり、私にとって大きな貴重な体験でした。
2年間の修練期を終え初誓願を立ててから、助産婦学校に進みました。私は本会を通して「本当に貧しい人、悩んでいる人、苦しんでいる人、悲しんでいる人、不幸な人々の所に行きなさい。」という教育を受けたと思います。
私は助産師として、流産した方、早産した方、産後うつ病になってしまった母親たちなどなど、数えきれないお母さん方と関わって来ました。初めの頃は好きではないと思っていた助産師の仕事。59歳で外来の受付に移った時のショック。また産後の母親たちと話したいという思いがこみ上げてくるのを見ると、私は助産師の仕事が好きだったのかしらと思います。
その後、私は大病を患い入院しました。その時隣のベットに40歳で末期がんのご婦人が入ってきました。「シスター祈ってください。もう手遅れですが今回は一泊泊まりで、乳がんの大きくなったのを小さくしてから手術をするために来て、シスターに出会いました。」と。それから1年半後その方のお姑さんから電話が来ました。「私、シスターに言えなかったのですが、隠れクリスチャンなんです。嫁がシスターと話しをして洗礼を受けたいと言いますが・・・」私はまだ病気あがりで身動きもできない状態でした。それで洗礼を受けるための勉強はある方に行っていただき、最後の段階で私が会いに行きました。私に話したら、すーと気持ちがよくなったそうです。その三日後アンジェラという名で洗礼を受けられ、偶然にも3月25日アンジェラの祝日に帰天されました。「この方に私を出会わせるために、神さまは私をがんにさせたのかしら?」とさえ思えた体験でした。神さまは私の人生の歩みの中で、病気も悲しみも苦しみも、私の全部を使って下さっているんですね。
ー自分の選びに迷いを感じたことはありませんでしたか?
そうねー迷いねー迷いは修練期の時だけでした。こんな私だからこそ、神さまが選んでくださったのだということが、長い修道生活を通してずーっと心に残っています。
ーこれまでの長い修道生活の歩みを振り返って若い人に伝えたいことは?
私は60歳を超えて、初めて自分の我が少しなくなったかなあと思います。病院などで働きたくなかったし、むしろ教会活動をしたい、もっと貧しい人々の中に入って行きたいとか、自分の欲望がいっぱいでした。そういう中で生きてきて自分の姿などよくわからなかったです。でも、それでよかったんじゃないかなーと思います。60歳を超えたらわかってくるし、神さまが道を見せて下さることを私は体験しました。若い時は若さで突っ走って、神さまが使って下さることを信じて歩めばよいのではないでしょうか。
最後に、今まで歩んできた道を振り返って、私はFMMで生活して来られたことを、本当に幸せだと思い感謝しています。