マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

シスターロザリンダ高本ジュンの巻

―ご出身はどちらですか?

takamoto 1私は沖縄本島の出身です。父はフィリピン人、母は日本人で、兄、私、妹、弟の4人兄弟です。洗礼は2歳の時、父の故郷フィリピンで父の家族に見守られながら授けられました。

自然がいっぱいあるところで育ちました。お弁当を作って家族で海に泳ぎに行ったことも思い出ですが、家から海岸までは車で15分くらいかかりますから、普段は近くのプールで泳ぎました。

周りは田んぼや畑がいっぱいで、セミやオタマジャクシと遊んだり木登りしたり…、自然の中で遊ぶのが大好きな、とてもおてんばな女の子でした。

―どのような学校生活でしたか?

小学校から高校までカプチン会の神父様が創立されたインターナショナルのミッション・スクールに通いました。ノートルダム教育修道会のシスター達が任されていらっしゃいました。生徒たちは、フィリピン、香港、台湾、インド、そしてアメリカの軍人の子等、私たちのようにダブルの子ども達がいました。学校は英語でしたが、私の生活圏の言語は英語、タガログ語、日本語で、結局、私は“チャンポン語”の人間です。

高校生の時、友達とのたわいもない会話の中で「自分は将来シスターになる」と言ったことを後になって思い出します。それはインターナショナル・スクールで見ていたシスター達のイメージで、その時はとても軽い気持ちで言ったのですが、後で思うと何故あのように言ったのか不思議です。

―自分が何気なく発した言葉でも、その時は気付かない「予言的なことば」ってありますね。その後、FMMのシスターになる道のりはどのようなものでしたか?

高校を卒業してから、会社に勤めました。小学生の頃は、バスで25分くらいのところにある教会に通っていたのですが、その後、家から車で5分程の所にある別の教会に移りました。そこでは幼きイエス会のシスター方が幼稚園をやっていました。シスターがある時「今度、黙想会があるから来てみない?」と声をかけてくれました。「黙想会って何だろう?」と、その時には何となく興味があったので参加しました。その黙想会で、長崎から参加していた方と知り合いになりました。その方は長崎の教会の幼稚園で、マリアの宣教者フランシスコ修道会のシスター達と一緒に働いている方でした。

その後、長崎のシスターから沖縄の安里の修道院(今は修道院は伊江島に移転)のシスターに連絡が行ったようで、面識もないシスターから電話で「ジュンさん、今度あなたのいる教会に用事で行くから会いませんか。」と言われビックリしました。そのような出会いから、安里のFMM修道院を訪ねることになりました。

初対面なのにシスター達が、私をまるで昔から知っている人を呼ぶように「ジュンさん」「ジュンさん」と名前で親しく呼んでくれるのに驚きました。若いシスター達もいるし、シスター達が皆、ニコニコしていてザックバランで明るい雰囲気で温かく歓迎してくれました。

「こんなシスター達も居るんだ!」「入るんならここだな!」と直感しました。

仕事のこと、両親のこと、人間関係のこと…など、心配や苦しみの葛藤の中にあった私に、管区長のシスターは「しばらく沖縄から遠い北海道の修道院に行ってみたらどう。」と、修道院の責任者のシスターを通して言って下さいました。

どうしたらいいのか悩みながら、必死に祈りました。両親のことを思うと、本当に涙、涙でした…。しかし父は悲しみながらも私を安里の修道院まで車で送ってくれました。神様の恵みと助けがなければ越えられないことでした。今思い返しても、ほんとに辛い体験でした。

それから、私は飛行機に乗り、日本を縦断して、当時の、古くて小さな千歳空港に着きました。

―FMMとしての生活が始まったのですね。

一年間、養護施設の職員寮に入り、パートで働きながら、この道が神様からの招きかどうかを祈り求めながら暮らしました。

それからアスピラントとして、横浜の戸塚にある修練院の近くのアパートに移り、今度は老人ホームで働きながら、修道生活を始める為の準備をしました。私が入会した頃は、修練院には数名の修練者がいました。初誓願を立てて、色々な修道院、様々な使徒職に派遣されて、今日に至っています。

―誓願後は、どのような生活でしたか?

takamoto 2初誓願後、奄美大島の老人ホームに派遣されました。奄美大島では、人々も素朴でおおらかですし、言葉、踊り、島唄も沖縄と似ていて、私にとって、とてもホッとするところでした。

養護施設でお手伝いしたこともありますが、老人ホームや養護施設では、職員の方々にとてもお世話になりました。助けられ支えられた体験でした。

その後、1年間、本部の瀬田修道院から、お隣のアントニオ神学校で、聴講生として神学を学ぶことになりました。でも、私は勉強が得意ではありませんでした。

終生誓願の後、宇都宮に派遣されました。 教区の外国人司牧センター(“オープンハウス”)で日本人や外国籍の司祭、信徒宣教者、シスター達そして信徒とチームを作り、チームで、国際結婚の方達の訪問、外国籍の子やダブルの子の洗礼や初聖体準備など、外国籍の信徒の司牧活動にあたりました。

takamoto前橋のあかつきの村も思い出深いです。沖縄の伊江島修道院では畑仕事を学びました。とても楽しい思い出です。

今は戸塚修道院で、高齢のシスター達の介護をしています。私は大先輩のシスター方と一緒にいることが好きです。

―今までの歩みを振り返って、今思うことは?

振り返ると、理解するのに時間がかかっても、すべてのことに神様の計らいがあることに、気づかされます。嬉しいこと、苦しいこと、色々な体験をして来ましたが、FMMになれて「本当によかった」と思います。感謝です。