修練院の東京移転
「日本の殉教者の聖母管区」の新設と時代の動きに従い、熊本と札幌の修練院を統合する必要が生じてきたために、熊本の修練院は東京へ移転し、札幌のオブラ-ト修練院は閉鎖されることになりました。会長のM.マルグリットが布教聖省(現在の福音宣教聖省)に提出した申請書によると、熊本に創設された修練院の東京移転の理由は「召命を集めること」にありました。確かに熊本では長崎旧信者の家庭に限られていた召命が、修練院を中央の東京に移すことによって信者でない家庭からも、また全国各地からも召命が生まれる可能性が高くなり、福岡教区と東京教区の「二人の司教様の賛同」が得られたこともあって「今こそ、移転可能な時」と考えられたからです。
会長は一時的に東京へ移転させる予定の修練院が、修練院として十分に機能してからオブラ-トを入会させたいと思い、福音宣教聖省の許可を待たず、直ちに修練者を移すよう管区長に指示しました。M.ピエ-ルは、正規修練院の建物が新築落成されるまで、東京修道院の創設当初の家を改造して修練院の仮住まいとしました。12名程しか住めない狭い家でしたが、生活に必要なものは何でも揃っていました。また東京修道院の年次報告によると、当時聖母病院で働いていた看護婦の全員が信者で、職員も含めて何人かがFMMの生活を希望していたようです。この時すでに5名のアスピラントが 聖母病院で働きながら修練院が移転されてくる日を待っていました。
1933年(昭和8年)3月4日、熊本修練院の移転許可が正式におりました。熊本のM.ディヴァン・パスツ-ル修練長に「東京へ出発せよ」との号令をかけたのは、1932年(昭和7年)9月25日に届いた管区長の電報でした。その翌日、M.ディヴァン・パスツ-ルと3名のノビスは、大急ぎで身支度を整えて東京へ出発し、修練長、2年ノビス2名、1年ノビス1名の計4名が聖母病院敷地内に用意された修練院仮住まいの最初の住民となりました。修練者たちはこの狭くて古い家屋の貧しく簡素なたたずまいに感嘆し大満足でした。10月3日、新しい生活にも慣れた頃、新しいメンバ-を迎えました。例の5名のアスピラントの入会式です。トランジトスの式後、管区長は一人ひとりにポスチュラントのベ-ルとケ-プを手渡しました。その翌日、聖フランシスコの祝日に、修練者たちの仮住まいの祝別にシャンボン大司教が来院し、聖フランシスコについて話し一同を励ましました。この祝別式をもって、修練長と有期誓願者1名、2年ノビス2名、1年ノビス1名、ポスチュラント5名(メ-ル2名、ス-ル3名)の総勢10名が、この修練院で共同体生活を始めました。やがて狭い家の中に小さなアトリエもつくられ、1933年(昭和8年)9月17日、聖フランシスコの聖痕記念日には最初の有期誓願式と着衣式が修練院の小聖堂で行われました。管区ニュ-スはこの日の様子をこう伝えています。
午前7時、小さな聖堂の扉が開かれると、驚いたことに入院患者が仲間たちのために 良い席を取ろうとこの瞬間を待っていた。なるほど、聖堂も廊下もまたたく間に 参列者で一杯になった。家族、国内外の恩人や司祭、修道士、修道女に混じって 聖心学院の生徒たちの顔も見られた。5名の美しい着物姿は参列者に思わぬ反響を 招いた。特に若い生徒たちの心を強く印象づけた・・・。司式者のシャンボン大司教は 本会と召し出しについて話された。
これは、修練院の東京移転によって蒔かれた新しい召命の種と言えます。新しいノビスの中には東京、大阪、韓国の出身者もいました。その後、新たに4名の入会者を迎え、あとはオブラ-トの到着を待つばかりとなりました。