-ご家族は?
私はインドネシアのフローレス島のバジャワ町のマタロコというところで生まれ育ちました。首都のジャカルタに行くには飛行機で7時間半かかります。日本に来るのと同じぐらいかかります。私たちは7人家族です。父と母、兄、姉、私、弟、そして妹です。カトリック信者の家庭です。とてもにぎやかで楽しい家族でした。父はとても厳しい時もありますが、親切で元気がよく、明るい人です。友達も多く、みんなからも好かれていました。子ども好きで、近所の子どもたちも父のことが好きでした。母は穏やかで静かな人です。両親から叱られたことで覚えているのは お祈りをしなかった時や、日曜日に教会に行く時献金を用意しなかった時のことです。というのは畑で作った野菜や、クッキー、ケーキなどを売ったお金を兄弟4人でわけて献金として各自が捧げることになっていましたが、それを持って行くのを忘れた時はとても叱られました。
-どこで、どのようにしてFMMを知ったのですか?
聖霊会の修道院は近くにありましたが、FMMは車で30分位のところにありました。私はFMMのシスターの学校で学びましたが、あまりシスターとのかかわりはなく、時々外国人のシスターを見かけたぐらいです。日曜日のミサでは聖体奉仕者をしておられましたが遠い人、雲の上の人という感じでした。
高校卒業後、私の親友がFMMになりたくてFMMのクリニックで3-4か月実習をすることになり、私に来てみないかと誘ってくれました。私は父に何と言ったら許してくれるかわからなかったので母に助けを求めました。母はわかってくれましたが、父は私がやんちゃだったので「シスターにはなれっこない、シスターというのは早起きで善良で一生懸命働く人で聖なる人たちだから」と言いました。私も周りのシスターを見るとみんな立派に見えて何でもできる人たちのように思いました。でも心の奥深いところでは、神様が望まれるなら、きっとシスターになれると思っていました。クリニックで働くようになってシスターたちにも少しずつ慣れて学生の時の印象とは全然違った感じを持つようになりました。心惹かれるようなこともあって、とても楽しい時でした。でもシスターにはなれないと思っていました。そこはクリニックだけど小さい町なので、まるで病院のようにフル回転していました。シスターは全部で9人位で、いろいろな島の出身の方でしたし、外国人もいました。「シスターになりたいの?」「いいえ」と答えながら、私は職員寮で1年半病人や苦しむ人のお手伝いをしました。好きな仕事でした。その当時3人のアスピラントがいて、勉強や祈り、聖書の分かち合いなどいろいろプログラムがあったようです。ある日、その中の一人が福者アスンタの本を貸してくれました。私はとても福者アスンタが好きになりました。特にFMMの聖体礼拝を大切にする生き方に心がひかれていました。そこのクリニックでも毎日修道院のチャペルで聖体礼拝がありましたが、チャペルは小さいので、初金曜日には講話室にご聖体を運んで、外部の人や在世フランシスコ会員、クリニックで働いている人なども集まって8時から9時まで聖体礼拝をしました。そして9時からはチャペルに移ってアスピラントたちも1時間ずつ聖体礼拝を続けました。私も初めて一人でひざまずき台について拝礼をさせてもらったときにはうれしくてうれしくてたまりませんでした。とても大きな体験でした。FMMのクリニックは、とてもシンプルだけど、お祈りの力がいっぱい行き渡っているのを感じました。こうして3年後、私はFMMに入会することになりましたが、父は怒っていましたので電話で話をしただけでした。父は「自分で決めなさい。お前は神様のものだから。」と言い、そして「後ろをふりむかないで…」とも言いました。
-FMMに入会して、日本に派遣されたのですね。
2000年1月ジャワ島のボゴールで志願者になりました。それから修練期、そして有期誓願者となり ジャカルタにある管区館に移り学校やクリニック、シェルターなど、また修道院内の仕事や高齢のシスターのお世話などをしました。
それから終生誓願の準備のためにノビシアに戻りました。誓願の3か月前に派遣先の希望を尋ねられた時、①アフリカ②アジアと書きましたが、その後管区長様から直接に聞かれたときには、エレミヤのように「送られるところに行きます」と応えました。そうすると「日本へ」と言われ「うそー」と思わず叫んでしまいました。考えたこともありませんでしたから。日本といえば、シスター高木とシスター林しか知りませんでした。でも、父からは少し日本語を教えてもらっていたのを思い出しました。「ありがとう」、「さよなら」、「おはよう」、「すこしずつ」、「君が代」、そして「ほかほか弁当」の6つ。そうそうテレビで「おしん」も見ていました。日本語は、私の故郷バジャワ語ととてもよく似ているので発音はあまり難しくありませんが、漢字を覚えるのが大変です。
-日本の印象は?
日本に着いた時、飛行場がとてもきれいでモダンなのにびっくりしました。人はみんな忙しそう、でも礼儀正しい様子でした。12月だったので寒かったのですが、迎えに来て下さったシスターたちを見て「みんなFMM」という安心感がありました。自動扉の前に立った時、ひとりでに扉が開いて、ひとりでに閉まるのを見て、「どうして扉は人が出入りするのがわかるのだろう・・・」と不思議に思いました。インドネシアのことわざを思い出しました。「Pintu berakal budi」つまり「賢明の門・扉」です。
-日本での生活について話してください。
現在、戸塚第1修道院の介護棟で高齢のシスターたちのお世話をさせていただいています。お風呂やお洗濯など、そして、その合間をぬって元気のないシスターや具合の悪そうなシスターの部屋を訪ねて、お話しをしたりします。そこから私は力をもらっています。話も豊かになります。木曜日には庭に出て、草取りをします。自然や人々の中に神様がおられるのを感じて、私の大好きな仕事です。「小さな人々のひとりひとりを見守ろう・・ひとりひとりのなかにキリストがいる・・」という歌をよく歌います。草を取りながら、色々なことを感じています。こんなに力を入れて草を抜き取ったら痛いだろうな、私も人に対して同じことをすれば傷つくだろうな、など・・・。神様は良いものを作ってくださったのに、自分の中に雑草が生えるのを見たりする日々です。石を取り除きながら、水をやりながらさまざまなことを思い巡らすひと時です。
すべては神様の賜物です。聖体礼拝の中で恵みをいただいて、それをみんなと分かち合います。毎日、大聖堂でみんなが心を一つにしてお祈りしています。高齢のシスターの病状が良くなったり悪くなったり、亡くなったりしますが、いつでも、シスターたちの祈りの力を感じています。神様をとても身近に感じます。共同体なしにFMMの生活はできません。色々なことがありますが、前進させてくださる神様の恵みに信頼しています。毎朝のミサで「行きましょう。主の平和のうちに」と神様は私を人々のなかに送りだしてくださいます。そんな毎日です。「世界中どこでも私の家です」(創立者のことばより)
インドネシアにいるとき、父は3回ほど修道院に会いに来てくれました。「FMMはいろんな地域から来ていて、文化が豊かで、家族精神に満たされているね」と言ってとても喜んでくれました。そして「祈りなしには生きていけないよ」と言ってくれた言葉が心に残っています。
レッティのやさしさがこれからも共同体を豊かにしていくことでしょう。 今日はありがとうございました。