再び「迫害時代」を迎えた教会と宣教修道会の危機-③
何よりも日本のカトリック教会組織を根底から揺るがしたのは、外国人教区長を日本人に交替させるようにとの政府の要求でした。この時すでに外国人の教区長たちはロ -マ教皇庁の布教聖省に辞任を申し出ていましたが、その結果、後任として任命された日本人教区長は、すでに日本人教区長に交代していた長崎教区と東京大司教区も含めて次の通りです。
長 崎 司教区(パリ外国宣教会)コンバス師 → 早坂師(1927年)
東京大司教区 (パリ外国宣教会) シャンボン師 → 土井師(1937年)
鹿児島知牧区(カナダのフランシスコ会)ロア師 → 山口師(1940年)
広 島 代牧区(イエズス会)ロス師 → 萩原師(1940年)
京 都 知牧区(メリノ-ル会)バ-ン師 → 古屋師(1940年)
浦 和 知牧区(カナダのフランシスコ会)ルブラン師 → 内野師(1940年)
大 阪 司教区 (パリ外国宣教会) カスタニエ師 → 田口師(1940年)
宮 崎 知牧区(サレジオ会)チマッチ師 → 出口師(1940年)
四 国 知牧区 (ドミニコ会) ペレス師 → 田口師(兼任-1940年)
横 浜 司教区 (パリ外国宣教会) シャンボン師 → 井出師(1940年)
札 幌 知牧区 (ドイツのフランシスコ会)キノルド師 → 戸田師(1940年)
名古屋知牧区(神言会)ライネルス師 → 松岡師(1941年)
新 潟 知牧区 (神言会) チェスカ師 → 松岡師(兼任-1941年)
仙 台 司教区 (ドミニコ会) ドミュ-師 → 浦川師(1941年)
福 岡 司教区 (パリ外国宣教会) ブルトン師 → 深堀師(1941年)
カトリック教会は、土井東京大司教を代表者とする「日本天主公教教団」の設立認可を受けると同時に、政府の統制のもとに置かれることになりました。しかし実際には、マレラ駐日ロ-マ教皇使節とシャンボン大司教の必死の努力のおかげで「平和維持と厳正中立」を世界に表明した教皇ピオ12世の導きのもとに、旅する「カトリック教会」で在り続けることができたのです。
本会にとって大きな慰めとなったのは、教区長を辞任後シャンボン大司教が戸塚修練院付司祭として修練者のもとに留まり、同じくキノルド司教も札幌修道院付司祭として札幌の共同体に残り、戦争で孤立した日本の管区を支え導いたことでした。