マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

シスター和田サヨ子の巻

―シスターは北海道生まれと聞いていますが、子供の頃のことを聞かせてください。

20120401_02私は北海道の由仁で農家の長女として生まれました。札幌から40Km位離れたところなのですが、一帯は田園風景が広がり自然豊かなのんびりしたところです。今も当時とあまり雰囲気は変わっていませんが、その土地柄が私の気質にも大きく影響していると思います。初めて東京に行ったとき、せこせこ歩いている人々の中で、私がゆったり、のんびり、歩いているのを見た人が「あの人、北海道から来たのよね」と言っているのを聞いて「ああそうなんだ」と思いました。私の下には弟、妹たちがいて子供たちは6人でした。父と母は今のように農耕機械があるわけでもなく、雪が融ければ畑仕事で大忙し、猫の手も借りたいような状況ですから、長女の私は手伝うのは当然で、父や母と並んで田植えや稲刈りをしていました。でも喜んでしていたわけではなく、勉強もしたいのに田植えや稲刈りには時期があるのでそれが優先、ある時など腰に火が付いたのではないか…と思うほど腰が痛かったのを覚えています。今思い出しても辛かった…でも父や母はもっと辛かったのでしょう。

私が3歳の時の田植えの頃、私の人生にとても大きな影響を与えた出来事がありました。後で母から聞いたことなどとないまぜになってしまっているかもしれないのですが、ある日叔母が「サヨちゃん、おばーちゃんの所に行く?」と聞かれたので私は大喜びで「行く、行く」と言って連れて行ってもらいました。私の中ではいつものように、2〜3日で帰ると思って行ったのですが、3日たっても4日たっても母が迎えに来てくれないのです。お家に帰りたくて、毎日「今日来てくれる?今日来てくれる?」と家の外に出て母の姿が現れるのを待っているのに来てくれない…、真っ赤な夕焼けの空が今も脳裏に焼き付いています。結局、田植えをすっかり終えた1か月後にわたしを迎えに来てくれたのですが、3歳の私には理由などわかりません。「母が来てくれなかった」「さびしかった」が心に刻みつけられたのでしょう。大人になってから自分を見つめる機会があったとき、この出来事が浮かんできて、「母に見捨てられた」「母に対する怒りが自分のうちにある」ことに気付きました。この出来事が「恵み」に変えられるのには随分時間がかかりました。「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものです。

中・高へは自転車で通っていました。田植え、稲刈りはその頃もずっとしていて、中間試験や期末試験と言っても勉強した記憶が全くないのです。勉強は本当にしなかった、したくても出来なかった…と言った方がいいかもしれません。冬は雪が深いので、徒歩で通っていました。あの冷たかったこと…。指先の感覚が無くなって、学校につくとストーブに駆け寄って手を温めるのですが、なかなか温かくならない。その頃それが当たり前だったので、自然に「耐えること」が身についたと思います。楽しかった思い出は雪が降り積もった時に、スキーに行き、思い切り滑ったこと、あの気持ちよさは格別でした。雪が融けて自然が甦ると草花が咲き、風が薫り、すももやブドウがみのり光っている。露に濡れたトマトをかぶりつく、あの新鮮な匂い、今も思い出します。秋になると赤とんぼが竿の先にとまっている…、まっかな赤とんぼ。本当に自然が豊かだったと思います。ずっと後、シスターになって聖地を巡礼した時、イエス様がお育ちになった、ナザレのあたりは牧草があり牛や馬が草をはみ、のどかで「ああ、由仁と同じ。」と感じた途端、イエス様がとても身近になりました。

―高校を卒業した後はどうされたのですか?

私は進学したかったのです。そうしたら小さな高校でしたし、先生もとても親切で、ある日先生が「札幌に『天使女子短期大学』という良い短大があるから連れて行ってあげると言われ、本当に連れて行ってくださったのです。行って初めて看護師を養成する短大だと知りました。だから私は看護師になりたくて行った訳ではなかったのです。ただ心の底に、当時「女性は夫に仕える者」と言うのが社会一般の考え方だったのですが、母のように黙々と夫に仕える生き方に疑問を持っていました。私はもっと自立した生き方をしたいとの思いがありました。看護師になって、資格を取って自立するーそれも良いな〜と思いました。父と母に進学のことを言うと反対しませんでした。私のことを思ってくれている両親の愛を強く感じました。受験の時、天使短大と、もう一つ看護学校を受けました。どちらも合格し、どちらに行こうかと迷ったのですが、先生が「これからは看護学校より、短大の方が将来性がある」と言われ、父も賛同したのでその言葉に従って天使短大に入りました。私の人生で大きな役割を果たしてくださった高校の先生を通して、神様は私を導いてくださった。あの先生がいなかったらシスターになっていなかった。このような導きの不思議さを思います。

―そこでキリスト教と出会われたのですか?

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洗礼を受けた20歳のころ

天使短大の見学に行ったとき、初めてシスターにお会いしました。こんな世界があるのだ、こんな生き方をしている人がいるのだ…と驚きでした。実際天使に入学して始まった寮生活、シスター方は気になる存在でしたし、何か惹かれるものがありました。クラスの中に洗礼を受けていた人が何人かいました。カトリックに触れる機会があるので、もっと知りたいと思うようになってきて、私の前の席に信者さんがいたので、時々「教皇様って何?」と聞いたり、「洗礼を受けるとどうなるの?」と聞いたりしました。するとその人が「洗礼を受けると罪が全部ゆるしてもらえるのよ」と答えてくれました。「罪が赦される」と言う言葉が胸に飛び込んできました。自分は罪深い…という意識が私にはあったので、「洗礼によって真っ白になる」それなら洗礼を受けたいと思いました。そしてシスターから本格的に公教要理を学び、2年生の時に洗礼を受けました。

短大時代の私は、都会に出て来ても遊び方も知らないし、ボーイフレンドもいないし、それよりも何よりももっともっと神様のことが知りたくて、夢中になってカトリックの本を読んでいました。聖人伝を読んだり、禁書だと言われればどんな本が禁書なのだろうと、却って読んでみたり…。特に永井隆博士の「長崎の鐘」「亡びぬものを」などから影響を受けました。読書漬けになってカトリックにのめりこんでゆきました。

―それでシスターになろうと?

シスターになる人は立派な人と思っていたので、そんなことは考えたことがありませんでした。ある日、1人のシスターから「和田さん、修道会に入ったら?」と言われたのです。もう全く「エエッー!!」と言う感じでした。「私は罪深いし、私がなれるの??」と自問しながら、でも心の底では外側が立派ではなく、内側から変えられたいと本気で思いました。「私でもいいのですかー」と。それから私の中では「修道生活」が選択肢の一つとして入ってきたのです。私は短大終了後助産婦学校にも行って助産師の資格も取りました。

―卒業してすぐに入会されたのですか

いいえ。5年間働きました。1年は天使病院で、その後東京の聖母病院で働きました。東京に行ったのは志願者としていったのですが、丁度助産師が不足していて、イタリア人の総婦長のシスターから頼まれて結局4年間働きました。25歳の時に戸塚に行き入会しました。両親は本当に辛かったようです。母は「苦労して育てたのに、ヤソ教に染まって遠くに行ったしまった。」と嘆いていましたし、父も同じだったと思います。志願期が終わって、着衣式の時、両親には知らせなければ、と思って手紙を書きました。何の返事も来ませんでした。式の当日修練長様が「お父様がおみえになりました。」と言われ、耳を疑いました。はるばる北海道の由仁から娘のために、1人で来てくれたのです。この時も口数の少ない父でしたが、父の深い愛情を感じて本当に嬉しいでした。

修練期にいただいた大きな恵みは、修練長様はアイルランド人だったのですが信仰も愛も大きくて、特に「ゆるす」という体験をさせてくださいました。彼女はゆるすことの出来る方でした。先ほど話しましたが、3歳の時に母に見捨てられたと思った体験は私の中で「怒り」として残っていることに気付いたのです。自分の「怒り」と出会ったのです。そして私も母をゆるしたのです。それは私の中では大きな出来事でした。心が軽くなる出来事でした。

―修練期を終えた後、何処に派遣されましたか

聖母病院で助産師として5年間働きました。20140401_02その後天使短大で働いているシスターからお声が掛かり、看護教育に携わることになりました。33歳の時から、現在に至るまで、教壇に立って教えています。同じ会が経営している聖母短大と天使短大を行ったり来たり、その間、学位を取るように言われ、勉強もさせていただきました。多くの学生たちとの出会い、教職員との出会い、さまざまな出来事がありましたが、自分の歩みを振り返ると、感謝が溢れてきます。私が還暦を迎えたときに聖母マリア様が歌われた賛歌「マニフィカト」を祈り、私もマリア様のように自分のマニフィカトを書きました。そこに書いたことは今も変わっていませんので分かち合いたく思います。読んでみていただけますか?

  「マニフィカト」11218816_877348752361353_5196175196285505414_n

「主よ、私の60年の人生を感謝します。                   私の魂は荒野から導かれ、私の霊は救い主である神を喜び讃えます。自己中心の病を持ち、無力で打ちのめされて渇き、呻き叫んでいる私に目を留めてくださったからです。いのちの源である主が私のいのちを蘇らせてくださいました。十字架は神の知恵、神の力です。イエスと共に味わう悲しみは喜び、幸いへと導かれるからです。闇の世界に置き去りになっていた私を満ちたらせ、主の救いを見せてくださった主に感謝し、主をほめたたえます。主は私の避け所、砦、私の神、より頼む神です。主は、私を慈しみ、憐れみ、とこしえの契りを結んでくださいました。そして愛に病んでいた私を生き返らせ、甘美な食卓を整えてくださいました。主がおっしゃたことは、必ず実現すると信じる幸いな者に私を変えてくださった主はほめたたえられますように。  アーメン」

私は本当に神様に導かれて、今日まで歩み続けられたのです。しかも変えられる経験をずっとしてきました。苦しかったこと、辛かったこと、それが恵みに変えられるのです。父も母も私の生き方に段々理解を示すようになりました。とくに両親が神様のもとに召された時には傍について看護をすることもできました。神様に娘を捧げた報いをいただいたのでしょう、二人とも本当に美しく、平安に満ちた顔をしていて、私は慰めを受けると同時に、父母の生き方をよりよく理解もできました。入会してから、私は祈ることによって、祈りの中で父母に出会ってきましたし、妹、弟とも出会ってきたことは喜びです。それは家族の生き方の中に愛の深さを教えていただいたからです。神様って本当にすばらしいお方です!

シスター和田、今日は本当にありがとうございました。これからもお元気に、看護教育を通して神様をお伝えください。シスターと共に、シスターのゆえに、主に感謝と賛美を捧げます。